『デジタル・タトゥー』を観ている

ドラマ『デジタル・タトゥー』をこのところ観ている。
https://www.nhk.or.jp/drama/dodra/tatoo/
インターネット上にいろんなことを自由に書ける昨今、中には、顔が見えないゆえに言葉が過激になったりして、事実無根の書き込みがなされ、批判された当人の社会生活に支障が出てしまうこともあるという。
SNS上の元書き込みが削除されても、コピーがあることも。
過激な書き込みをしてしまった当人が反省して元記事を削除しても、そうしたコピー(まとめサイトはコピペが多いが、web魚拓やweb archiveなどは元サイトの体裁そのままに残される)は残ってしまう。そちらの削除申請もしなくてはならない。
それに、SNSをしていないから自分には関係がない、というのもこの時代、誤りだろう。本人があずかり知らぬところで勝手な噂をされることは、充分に考えられる。
何年も前のことでも、今では検索すれば昨日あった出来事のように記事を読むことができてしまう。便利な反面、怖いことでもある。一昔前なら時間が風化させてくれたようなことも容赦がない。
人間、そこまで毎日、正しく生きていけるものだろうか? ちょっとした失言を見つけては正義を気取ってたたき伏せる輩には、正直、閉口する。
ところで、ネット上でものを書くときの経験則だが、『〜するべき』という言葉にはとくに注意を払うと良いと思う。その言葉を使ってはいけない、ということではないが、自分のポジションを明らかにするだけではなく、その反対の立場を無闇に批判するニュアンスもあると思う。時と場合によるけれど。結構『べき』論、ネットで見かける。根拠が薄い、あるいは、ないこともあるのに。
ドラマの昨日の回では、裁判で明らかにされたとされる『真実』が、実はえん罪だったという司法上の問題点も巻き込んでいて、示唆に富んでいたと思う。裁判が必ずしも真実をつまびらかにしてくれるとは限らないというのは、過去のさまざまなえん罪事件や『それでもボクはやってない』という痴漢冤罪の映画でも社会に問われたことだ。
日本の刑事裁判は99パーセントが有罪になる*1という。しかし、普通に市民生活感覚で考えて、例えば何かの証言をするとき、警察や検察に客観的に正しく伝えられるだろうか? 事件の証言という非日常感や警察に促されたりして多少、盛ったり、「この人こそ犯人です!」と言い切ってしまったり、そういうことはまったくないのだろうか?
そんなこともあるので、悪いのはこの人に決まっている、と、ある人を批判するのは、よほどの根拠がなくては出来ない。もし間違っていたらその矛先をどう収めるのか、そこまで考えて行動しないと、相手も自分も傷つけることになる。
この意味では日本のマスコミはかつて、手痛い失敗をしている。松本サリン事件の時、たまたま現場のご近所にお住まいで、少々化学薬品を所持していただけの一般人の方をマスコミはこぞって犯人として糾弾した。
やがて東京の事件などもあって捜査が進み、真実が明らかにされたとき。真犯人は恐ろしいカルト組織であり、彼と彼のご家族は本当に普通の人。むしろあの毒ガスの被害者であったとわかった。
あの時代にインターネットがあったら、彼を擁護するより批判する声が多かったのではないかと思う。何しろあのとき、世論がハッキリした犯人を求めていた。犯人を血祭りに上げろと言わんばかりに。
今の時代、その松本サリン事件のような誤解が、ネット上という場所で日常的に起きているともいえる。想像するだに恐ろしい。
何かをネット上で断定して書くときは、よほどの根拠を持って示さねば、怖いのではないか? そして、客観的に分かりやすく誤解がないように書かなくてはならないのではないか? そんなことを思いつつ、このドラマを見ている。
そういえば「ウソをウソだと見抜けないとインターネットを使うのは難しい」という言説もある。言葉はキツいが、こんな言葉が出てくるくらいインターネットは難しいということだ。
そうは言っても、ウソを見抜くのは誰でも難しい。そんなことを言っていたらいつまでたってもネットを使えないことになる。
肝心なのは、自分が信じた情報が虚偽だったときにどう対処するか常に考えることや、極端な情報を過信しないことではないだろうか。
『ソースを示せ』*2、『半年ROMれ*3とは昔の掲示板でよく言われたが、最近聞かれなくなった。だが、この言葉は、今の時代でも示唆に富んでいるだろう。ネットを使う人はやっぱりこの2点は理解しておくと良いのではないかと思う。

*1:年間の刑事裁判の統計から、判決が有罪、無罪の件数を合計し、無罪だった割合を算出するとこれくらいになっているという話。『それでもボクはやってない』で触れられていた。実際『刑事通常第一審事件の終局区分別人員(実人員)【地方裁判所】 』(http://www.courts.go.jp/app/files/toukei/160/010160.pdf)を見ても、平成29年度で有罪49335件、無罪111件。有罪率は49335÷(49335+111)≒0.997…つまり約99.7パーセントだった。

*2:私見による解説1:何かについて論じるときは、その根拠になった情報源をきちんと示すべきである、ということ。

*3:私見による解説2:ネット掲示板に書き込む前には、半年くらいは様子を見て、その掲示板の空気感や信憑性を吟味し、もしもそれでも書き込むならふさわしい態度で望むと良い、ということ。ある意味では同調性を肯定するような言説とも思うが、より慎重になるなら考えておいた方が良い態度

とんでもない埼玉!

一度は見ておかねばならない謎の使命感のもと、『翔んで埼玉』の映画版を見てきました。ようやく。他のお客さんのリアクションも面白かった。
元はといえば、『パタリロ!』で有名な魔夜峰央先生が若かりし頃に書かれた3回分の短編連載。
新潟から所沢へ引っ越して漫画を描き続けていた頃の鬱屈とした想いがきっかけだったとか。ただ、3回分のあとで作者様が埼玉県外(ちなみに横浜!)にお引越しされたために、続きを描けなくなってしまったという…なんともこれ自体が冗談のような背景を持つ怪作であります(参考文献は『翔んで埼玉』収録の『やおい君の日常的でない生活』コミックス後書き)。
連載は前述の作者事情により中途半端なところで終わって。いまの時代になってこの漫画が面白い、と、発掘され、映画にもなったという。
あの面白いのに中途半端な作品からよくぞここまで仕上げたなぁと。逆に最後のオチまで描いていなかったから、映画でしっかりとしたシメをつけられたのかもしれませんが。
さて、映画版は流石にあの世界をリアルとして描くのには無理があると判断されたのか、あくまでも「こんな都市伝説が埼玉にはある」というラジオ放送の体で進みます。しかし…最後の最後に、この物語の核心設定である「あくまでもラジオ」の前提がひっくり返されたりもして、どこまでがリアルなのかよく分からなくなってしまってそれもまた面白かった。
都庁が出てくるあたりから結構リアルっぽさが強まってきて、ほんとどこまでが映画なのかと思いましたよ。新宿都庁付近なんて知ってるところばかりでしたし。
昔から、地域性でディスりあうっていうのは何かしらあるものです。それを魔夜峰央フォーマットの大げさな世界観に組み込みつつリアルの事情と絡めるとあんなトンデモになる。千葉との決戦のシーンは本当に圧巻。『パタリロ!』といい、魔夜峰央作品は大げさで舞台っぽい分、かえって2.5次元に実は向いているのかなぁ。
ところで個人的な埼玉県の印象はものすごく突出した何かはたしかになさそうではありますが、それなりに安定安心の県ってイメージが。だいたい、西武線自体がそんな感じで。西武が中心になって駅前開発をすると、良くも悪くもどの駅も同じようなクオリティになる気がします。それなりの施設はちゃんと揃っていてそれなりに便利なんですが、地域性のところに微妙な疑問符が付いちゃう。可もなく不可もないのであまり批判しにくいのですが……。しかしその安定性を完成させるすごさが埼玉県にはありますね。
ニッチな映画なのに結構長くやってると思います。映画館によってはそろそろ公開終了かも。埼玉、千葉、茨城、東京に長く住んでいる人に特におすすめ。テレ玉とかNACK5などリアルに埼玉な描写も濃く、背景を見ているだけでも楽しめました。
……ちなみに、私は埼玉には住んでいませんが、西武線には馴染みがありすぎるので!
あとあの埋蔵金ネタと赤城山って、どう見ても糸井重里さんが昔やっていたあれに掛けてますね。そういうところも面白かったですね。

次の人が引き継げること

属人的な仕事と、次の人が引き継げることって違うんだよなァ。
なんの話かというと、とある会社のとあるシステムを構築した社内SEさんが退職したので、次世代システム構築を最初から作るように見積もってもらうと15億円かかるっていう話…。
詳しくは下記。
https://togetter.com/li/1353521
5000万円の見込みでいた発注元会社さんはびっくりしただろうけど、この元のSEさんを1億円で呼び戻した方が安い! っていうのは合理的な意見だと思う。
ただ、会社って、優秀なエンジニアとかクリエーターがいたとしてその人が辞めたら倒れちゃうとかでは本当はダメで、他の人でも回せるように上の人が考えてあげないといけないだろう。交通事故なんて日常茶飯事なんだし。そのSEさんに何かがあったら会社が止まっちゃうってことになりかねない訳で。
こんなことを考えるようになったのは、自分的には実は『はてな』の近藤さんの影響だったりする。いつだったかのはてなダイアリーの記事(かな?)で、自分がいなくても会社は回るように組織を考えないといけない、みたいな話を書いていらして。一理あるなぁと。
あの記事を読んでから、仕事の上ではともかくソースとか根拠、手がかりを残すように気をつけるようにした。正直、仕事の記録を書くのにその辺りをスルーした場合の倍の時間がかかるんだけど、あとで検索した時に圧倒的に楽なので、このやり方は自分に合っていると思う。まあ、他の人が読む時には長文になっちゃって申し訳ないけど。
ただ、まあ、自分はSEはSEでもシステムエンジニアじゃなくてサポートエンジニアの方だからなぁ。また仕事の仕方が違うんだろうなぁ。そのシステムエンジニアの皆さんは本当にすごいと思う。そのひとにしか出来ない技的なところは、どうしても出てきてしまうのかもしれないな。
この話で思い出したこと。
ここ数年、何となく手塚治虫先生の伝記的な漫画をアレコレと読んでいるんだけど、先生のような超天才が超情熱的に仕事をしたら、あれだけの作品数になるんだなぁと驚くばかりだ。
ただ、漫画やアニメの技術やシステムについてはともかくとしても、クリエイティブな面について、先生と同じことができるひとは流石にいなかった。
手塚作品は先生の天才性に多分に依拠していたから『蒼いブリンク』みたいに途中からをなんとか引き継いで完成させることはできても、手塚治虫亡き後に手塚先生の新作というのは流石に無理だった。*1
こういうのは引き継げること、引き継げないこと、何かしらでてくるものなんだ。
で。ふと思ったのは。
身の回りに誰かしら、この分野については天才あるいは秀才的にすごい、というひとが、なにかしらいないだろうか?
別にジャンルはなんでもいい。家事全般……いわゆるおふくろの味みたいなものとか、趣味で絵を描いているとか、もちろん仕事能力がすごい上司や部下、同僚がいるとか、何でも良い。自分自身が他人より秀でている自覚があるというものでもいい。
そういう人のすごさは、何でもいいから記録にとっておくべきだと思う。テクニックなのかクリエイティブなのか、ロジックなのかそれぞれ色々だろうけれど。
世の中、スマホやらなにやらで、記録手段には事欠かない。
もちろん、web公開して良いかどうかは慎重な判断が必要だし、web公開が必ずしも良いこととは限らないが、私家版でもいいから客観的なデータがあることと、まったくの記憶の中にしか記録がないのとでは、やはり雲泥の差だ。その技が自分や他の人が実際に再現できるかは別だが、どんな技だったのか、記録がなければ引き継ぎもへったくれもない。もし、その記録さえあれば、それこそ人類にとって実は億千万の価値があったのかもしれないのだ。
ともあれ、最初の話のSEさんには、本当に幸あれと願う。その方がきちんと評価のされる良い職場に巡り会えますように。

*1:先生が亡くなられてから10年くらいして日本のインターネットが本格的に普及するんだけれど、もしも手塚治虫プロデュースのホームページなり、Flashなり、YoutubeやPixivなりがあったらどんなんだったのかな、と、本当に思う。あのあとの日本はこんなにクリエイティブ大国になるのに、先生は亡くなられるのが早すぎた…。

ラフォルジュルネで『ユマラ』を鑑賞

ラフォルジュルネに行ってきました。
有楽町・東京国際フォーラムで毎年ゴールデンウィークに行われる音楽祭。
今年は吹奏楽系も結構あったのですが、チケットのソールドアウトが早かった…。
それで、今回の有料公演としては、合唱と和太鼓で北欧神話の世界を描く『ユマラ』という作品を鑑賞してきました。
人間の声と和太鼓だけで、あれだけ多彩な響きを表現できるとは。感想を書くのが難しいですが、声と太鼓の多層な響きに加え、和太鼓をナラの木に見立てて周りを惑星が動くという表現を、コーラス隊が動き回ることでコンテンポラリーダンスのように表現していて。
癒しのある響きを聴いていて、特に中間部のところは最近読み直した紫堂恭子先生の『癒しの葉』という漫画を思い出させられました。
やっぱり、こういうのはビデオとかで見ても面白さや美しさが伝わりにくい。CDはなおのこと。現場のライブで味わうのが一番です!
でも、一応、ラフォルジュルネの公式動画がありましたので…参考に。
https://youtu.be/sp4is-xdI6E
東京国際フォーラムではもっと広い舞台を使ってもっと歩き回って大きな表現をしていた点、申し添えておきます。


その他。
新星堂の出店で掘り出し物輸入CDを発掘。じつはここ2年連続して、掘り出し物コーナーでスティーブ・ライヒの作品を掘り出せていたのですが、今年は空振り。でも、金管7重奏など珍しい編成のCDを発掘できました。ジョン・ウイリアムスの生誕80周年記念盤の海外版とかも。まだ聴いていませんが、末尾に入っているハッピーバースデイの歌のオケ版が気になります。

☆ローランドのブースで最新鋭のウインドシンセを吹いてきました。打楽器すら吹奏できたり、移調楽器を再現できたり自由自在。スマホと連動して音源をさらに多彩にできるとか。ちょっと面白い楽器。

☆チケットの半券で聴ける公演で『アッピア街道の松』のオケ版を聞いてこられました。昔、吹奏楽でやった時の大変だった思い出が蘇りつつ…。やっぱりあの曲は一番大変なのはホルンセクションだと思うんです。このへっぽこトロンボーンの人に言わせても。絶対外しちゃいけないハイノート、音量も要求され、でも音を割らないようにあくまでも品は失わず。さらにテンポは意外に遅めなので持久力が試される! ホルンの方、本当にお疲れ様でした。

☆せっかくの有楽町なので、東京国際フォーラムからほど近い皇居の二重橋も最後に見学。新天皇陛下のご即位による一般参賀は終わった時間帯でしたが、見学者の方はそれなりにいましたね。まだまだ警戒態勢もありましたが無事に終わった感じが伝わってきました。ひとまず良かったです。お天気ももったみたいですし。変わったところで、フォークリフトで車留め? の石を移動しているところが見られました。全く迷いのない素晴らしい運搬ぶりで気持ちが良かったです。

映画版『キングダム』

映画版『キングダム』を誘われてみてきました。
詳しい配役やあらすじ、予告編などは公式さんに頼っちゃうこととして。
https://kingdom-the-movie.jp/sp/index.html

漫画はそれなりに読んでいる方ですが、本作は未読未見。当日に思い立った人に誘われていったために予告編すらほぼみてなくて、映画館サイトの説明を数行読んだだけ。ただ、この作品(原作漫画)が売れているのだけは知っていました。
今回、かえって先入観なくてよかったかもしれない。漫画原作物につきものの、元キャラに似てるかどうかとかを気にせず、素直に映画として楽しめました。
中国の歴史を背景にした大活劇。
共に同じ大志を抱く青年2人を襲うショッキングな運命。
画面からビンビン伝わってくる大河映画感に、漫画原作らしい歯切れの良い現代的な台詞回し、ある種やや大げさなキャラクター。
だがそこが良い!
るろ剣』の映画版も志々雄真実や瀬田宗次郎の描写を現実的にせず、敢えて漫画表現の立体化に徹したからこそ強く印象的でした。
やっぱり、2.5次元はこうでないと。
今作、原作を知らなくてもあのセリフまわしに違和感はなかったですから。中国史の映画とだけ捉えたら現代っぽすぎるという感もないわけではないですが、もし、歴史物っぽい台詞回しとキャラに改変なんかしたら、あの彼の生意気ながら大志を抱き、誰に対しても折れないという、強くて純粋なキャラクター性が死んでしまうと思います。それでは別物になってしまう!
紙の上では違和感がなかったキャラクターをどう映像化するか。アニメでもそうですが実写ではより考えなくてはならないテーマです。
さて、恐らくは映画版は原作の序章的なところまでをやったんじゃないかな、と。
まだ作品は続いているみたいなので。
全部やったら途方も無いですねえ。ハリーポッター並みになりそう。
彼らの戦いはまだまだ続く!

少女漫画円熟期の傑作の舞台裏

改元ですが。
正直、妙な祝賀ムードには馴染めないものも感じてはいます。
まあ、時代の切り替えを前向きに捉えるキッカケになっているのは、悪いことではないと思いつつ。改元って、ただでさえ色々とたいへんなことなのに、後ろ向きになっちゃうよりは良いんじゃないかな、と。
ともあれ、せっかくのお休みなので、普段読めない長編漫画を読み返していましたが、手持ちの読書だけではもったいない。
今日は友人と立川駅前の図書館に行ってきました。漫画の図書館ではなく、普通の公共図書館なのですが、漫画についての本も探せばあるわけで。
改元がらみであえて書きますが、「昭和の少女漫画の代表作を何本か挙げてください」と言われたら、多くの人が名前を出しそうな作品は?
やはり『ガラスの仮面』(一応、現在進行中)と、『ベルサイユのばら』(こちらは完結)は出てくるでしょう。
それぞれの著者自身が作品について語る本を短時間でざっくりとですが読んできました。

美内すずえ先生の『ガラかめ』は、まだ完結していないのですよね。他でも読みましたが、作者さん的には話のオチは決まっているものの、そこに至ることで難儀されているとか。たしかに、49巻までの流れを見ていても、典型的な物語だったらさっさとマヤを紅天女役にして、真澄様と結ばれて終わりでしょうけれど、そう簡単には行かなそう。何よりライバルの亜弓さんがかわいそうになってきちゃっていますね。この辺りのこととか、舞台化、能、『ガラスの仮面ですが』でのパロディについてなど興味深く読みました。
文化としての漫画と歴史 (ブックレット生きる)

文化としての漫画と歴史 (ブックレット生きる)

池田理代子先生の『ベルばら』。本書によればフランス衛兵隊がバスチーユ監獄の戦いのときに市民の側に付いた、という史実があり、あのオスカルはその衛兵隊長を描くために生まれたキャラクターだそうです。ただ、男性をしっかりと描く自信が当時の池田先生になかったので、苦肉の策でいわゆる男装の麗人にしたのだそう。世の中、何が幸いするか分からない。史実通りに男性キャラクターとして描いていたら、今も続く『ベルばら』人気はなかったのではないでしょうか?
ただ、たしかに骨太の作品ではありましたし大人気ではありましたが、あくまでも『ベルばら』は歴史を叩き台にした架空のお話。少女漫画としての枠内で書けなかったことが多々あったり、池田先生が描きたいことについて編集部から反対されたことがあったり、現地取材なしで描いたためにあとから見たら描写不足だったりもしていたとか。その辺りを含め、新人時代の池田理代子先生の事情が語られたエッセイでした。
ちなみに。連休中に読み返していたのは、紫堂恭子先生の『辺境警備』をはじめとする一連のサーガなのですが(『グラン・ローヴァ』『辺境警備』『東カールシープホーン村』そして最新作の『逃げる少女』)。こちらも作者さんの新人時代、それもデビュー作からスタートしており、少女漫画なのに怪物が出たりなどは編集部からは反対意見があったりもしたとか(『辺境警備』の作者あとがき)。
描きたいことがあって漫画家になるものだとは思いますが、やはり譲れないものがあるって強いですなぁ。悪霊や獣虫が出ない『辺境警備』、デシ&ダシが出ない『グラン・ローヴァ』なんて有り得ないですもの。
こうなると、作者さんが長い目で見たサーガとして描いているものを読みたくなる。例えば『ベルばら』つながりでの『オル窓』などの一連の池田先生の歴史漫画シリーズ(未読の『聖徳太子』も含めて)を読み返したくなってしまうなぁ。そんなの、10日もお休みがあっても全然足りない! 他にも予定があることですし。
漫画を単なる絵物語の枠を超えた一大ロマンスを描ける大きな媒体に育て上げた先生方には感謝しています。手塚治虫先生然り、和田慎二先生然り。
そうそう。図書館には『妖精国の騎士』の中山星香先生が手掛けられた『妖精キャラクター事典』もありました。
妖精キャラクター事典

妖精キャラクター事典

ファンタジーRPGなどでの定番キャラクターも多数収録され、何より中山星香先生の生き生きとして美しいイラスト。漫画だけでなくこんなお仕事もされていたとは知らなかった。
古い本と出会える図書館って良いものですね。立川駅前にはあの『ファーレ立川アート』もあり、久しぶりにそちらの作品もざっとですが見てこられて、良い一日でした。

逃げる少女(紫堂恭子 著)

紫堂恭子先生の新作を読みました。

あの、『辺境警備』の『星が生まれた谷』の出来事から2年後らしい。
辺境警備といえば、豆みたいなかわいい兵隊さんとスケベな隊長さん、隊長さんにだけ厳しいけど優しい神官さん、その父上(実は大いなる賢者様)の背高さん、そして、ツンデレの呪術師。
…なのですが。
今回は西カールでも、東カール(シープホーン村など)でも、はたまた王都(エンディミラ・オルム)でもないみたいですね。ただひたすら、訳の分からないまま姿すらも分からない破壊者から荒野や森林を逃げまくる少女ジェスベルと、その子を助ける青年セスのお話。
今作では辺境警備の世界観でも今まであまり触れられていない、旧魔国へとお話は展開してゆくようですが、第1巻は起承転結でいえば起なのでしょう。
お話のキーは今のところ4つ????
この怪奇現象はなんなのか?
この少女は誰なのか?
彼女はどこから来たのか?
どうやって来たのか?
謎が解かれるのはだいぶ先と感じさせつつ、とある人物と出くわしたところで第1巻終了。そうか、彼と出会うのか!
美味しいものはとても美味しそうに、怖いものは真正面から怖く。そしてココロの交流もきちんと描く紫堂恭子ワールドは変わらずそこにありました。ものすごく丁寧に描き込まれた背景が心理描写にも影響している、なんというか、別の世界がそこにある感じがすごく好きなんですよねぇ。ほら、現実でも、日の暖かさにホッとするのか、それとも焼け付くように自分を責めるように感じるのかで、同じ気温同じ湿度同じ日照状況でもその人にとって全然違った意味になるじゃないですか。ああいうところまで紫堂先生はちゃんと描くので。日が照っていても、良い天気だから出かけようってなるか、ショックなことがあったり気分が塞いだりでカーテン締め切りで部屋に閉じこもるかっていうので、全然違うでしょう?
また辺境警備シリーズを(シープホーン村とかグラン・ローヴァとかも)読みたくなったなぁ。
辺境警備の世界でありながらサスペンスティックな新機軸、この先が楽しみです!