この世界のさらにいくつもの片隅に

久しぶりに映画を。12月公開だからもう見落としたと思っていたら、まだまだ公開中だった「この世界のさらにいくつもの片隅に」。前作からのロングランをさせてくれた諸氏に感謝しつつ鑑賞してきた。
確かに座席数が少ないシアターが割り当たったのだが、それにしても公開から一ヶ月半経過した映画で日曜日とはいえ満員とは。実のところ、前作の頃は映画館自体になんとなく脚が向かなかった頃で、前作含めて観るのがはじめてとなった。
舞台は広島、呉。戦争中の呉と言えば、やはり戦艦大和の建造がイメージされる。作中にも出てきたが、本物は相当な威容だったのだろうと改めて思う。大和をはじめとする軍船の建造地。さぞ物々しい街だと勝手なイメージを持っていたが、本作にて、普通のヒトが住む町でもあるのだったと気がつかされた。
朝起きて、ご飯を炊いて、仕事のある人は勤務に行って、家の人はお洗濯やお掃除、配給の受け取りなどなど日用をする。そういう観点からすれば、日本のどこにでもあった普通の町。
そして、主人公のすずさんも、絵がちょっと得意で、ちょっとドジっ子な普通の女性だったのだ。
当時の日本の敵国であった米国等に対して、すずさん自身が敵対的に軍事行動などしたことはない。例えば、米国等の兵士の誰かを殺してなんかない。彼女だけでなく、普通の市民はみんなそうだった。小さなしあわせがあればよかった。家族があれば良かった。
何で空襲されなければならなかったのか。とりあえずの答えとしては、呉は軍事上の重要拠点だったから、と思われる。
じゃあ何で彼女は、空襲で撒かれた時限爆弾で絵を描く右手を喪失し、義理の姉の娘さんをも失わなくてはならなかったのか?
彼女が絵を描くことが、娘さんが軍船をながめることが、米国等に不利益を何かあたえたか? ゼロだ。
あの戦争での一般市民への空襲は過剰な攻撃だったのではないか、と改めて思わされた。もちろん、あのときに広島と長崎に落とされた「新型爆弾」のことも。直後に広島の救援に行って、放射能によるダメージを受けた人も多かったという。もしも、落とされたのが特殊な爆弾であり、しばらくの間は爆心地に入ってはならないコトが啓蒙されていたら、少しは違っただろうか。
結局のところ、泣いたのは普通の人。
戦争が終わっても生活は続いていった。戦争の後の、台風襲来まで描いたのはきっとそうした意図だろう。すずさんたちはそうして、生きていったのだと。
映画を通して確かにあの頃の呉にいけた気がする。絵も親しみやすかったし、とくに音響のリアリティがすごかった。軍船のある港町の雑多な感じとか、伝わるものがあった。
だからこそ、おそらくCGで描かれたであろう空襲で落とされた焼夷弾類に、よりメカチックさを感じた。まさに日常を破壊する異物だ。
戦争をした米国を憎むものではない。
当時の日本の首脳を憎むものでもない。
だけれど。
戦争という行為そのものは、理不尽しかないのだと改めて思った。すずさんたちがあまりにも普通だったから、余計に。
映画館のお土産に手ぬぐいを買った。呉とは、九つの嶺のことから付いた地名だという、最後の方のシーン。美しかった。
そういえば、最後の方のあの小さな女の子が出てくるシーン…時空がゆがんで、もしかしたら起きていたかもしれない、すずさんが被弾して亡くなった平行世界から来たように思えたのだけど。解釈は人それぞれだろうか。