標準なんてあるわきゃない

システム標準ではこうで、ユーザーがやりたいことはこうだから、まあこの程度のことを想定しておくべき、とサックリと分析する脳の働きには、仕事のせいなのか何なのか、ともかく自分は慣れてしまったらしい。
想定するから想定外のことが起こる。起きてからあわてるくらいなら想定なんかしなけりゃいいのに、想定なしでは何の準備もできなさすぎる。よって人は何かを起こす前には何かを想定せずにはいられない。それが人間の文明文化を一歩先に進め続けてくれたのかもしんないけど、今のコロナ渦では時にそういうのが邪魔になる気もしていたりする。
想定外ってのが陰ながら流行語なんじゃないか、と、こっそり疑惑を個人的に抱えるくらいには、この国は異常な状況にあるらしい。なに他人事のように書いてるんだかと、自分なりにも呆れるが、実際、どこか他人事のように見えているのが実感だからだ。
さっきから何のことを書いているのか。特にマスク生活のことを書いているつもりだ。マスクなしでは今は社会に出ることができない。いつのまにかルールやマナーがそうなった。何月何日何時何分何秒からとかは実のところは分からないが、強いて言えば昨年の緊急事態宣言の1本目あたりからそういう空気になっていった感覚はある。おかげで東京は都市の規模の割には、海外に比べて罹患者が少なめのように思う。それでも同じ病気で毎日数百人が報告されるのは、やっぱり異常なことだとは常に思うのだけれど。
で、数年前までは夏にマスクを全員がつけるなんてことは標準外のことだったのに、去年の夏に都内で売れた商品のひとつは、間違いなく夏向けに開発された布マスクの類であろうと思う。統計とかは知らないが、おそらく。
つまり、マスクしてから外出するのが今の標準だ。もしそれをしなかったら、訪問先によってはサービスを受けられないことも想定*1される。もちろん自分も、もしかしたら潜在的罹患者かもしれないという疑いを、東京新宿駅ユーザーとしては常に抱き続けざるを得ないというのもあって、マスクは日々付けている。
5年前には考えられなかった。やっぱり、本物の標準なんてあるわきゃない。数年前の想定? 参考になるわけないだろ。今は生活の、人生のルール自体が変わっちまったんだよ。それが実感だ。
そんなことを自問しながらなんとか細々と生きていたが、結構、疲れたなァ。
ものすごいことをしたいわけじゃないけど。
ちょっとしたことに、やいのやいのやいのやいのやいのやいのやいのやいのやいのやいのやいのやいの、と、制限がかかるというか、自主的に制限をかけまくっている今の状況は、疲れる。
自粛要請っていう言葉は矛盾していると思っているが、プロパガンダとしてそういうスローガンが罷り通っている。まあ、言いたいことは分かるし正論だし、みんながマスク1枚付けさえすれば、見知らぬ誰かをあの世に送ることも、自分が送られることも可能性は下がるので、あまり正面から批判は出来ないけど、日本語として変じゃない? とは思っている。自粛って、自分から周りのことを考えて自発的に行動を慎むことだろ? それを要請されるって何なんだと本当にめちゃくちゃ矛盾しているとしか思えない。
こんなこと、他人から言われる筋合いは、本来なら、ない。なので自分の感覚を信じるなら日本語として変だと思う日々なんだけど、日本の法律では別に何か犯罪をやらかしたわけでもない人たちに法律に基づいた行動制限をかけることができないらしいので、まあ、こういう変な日本語におさまってしまって、なんとなく喧伝されてるようなのだ、どうやら。
ここにも見えない想定外がある。自粛って言葉が想定した範疇と、要請って言葉のそれのせめぎ合い。
そういう、目に見えない細かな想定外が積み重なって積み重なって。そういうのがとこかで一気に爆発する時がいつかくるのではないかと思う。
仮に、何年後か分からないが、コロナの収束宣言が国内向けに出されたとする。
その日の夜の渋谷のスクランブル交差点が怖い。再度、大クラスターが発生しかねない、と、疫学的には分からないけど何となく想定してしまう。
病気が無くなったという標準想定で人が集まったら病気が発生した。それはまた想定外なのだ。
やっぱり、想定なんかしない方がいいんじゃないか? と疑問に思いつつ、想定教に殉教せざるを得ない日々。そんなものは宗教ではなく概念でしかないから誰も何も救ってくれない。
人が集まるだけでどこかしらで感染が発生して死者が出る。極論すれば感染症はそういうことだと理解している。人間は社会的な生き物なのに、社会性を真正面から否定してかかられる。つまりこの事態は、見えない世界から人類が攻撃されていることそのものなのだろう。戦争なんだ。ある意味では。だから日本史で学んだような、戦時中のような雰囲気をうっすら感じてしまうんだ。みんながある種の怯えを持って、みんながある種の警察になって。マスクが心理的に息苦しくて当たり前だ。今のマスクは高性能だけど、物理的な圧迫感はやっぱりそれなりにはあるけど、そういうことではなく。
戦場のようなものであって戦場そのものでもないというのが、これまた矛盾していて気持ち悪くて面倒くさくて仕方がないが、ねっとりとしたその空気感、圧迫感、真綿で締め上げられるようないやらしさにも、耐えて生きていくしかないのだろう。
せめて、自分は味と匂いがまだ日々分かっていることに救いを求めたい。人が生きることに必要な小さなことは、やはりご飯が美味しいこと、コーヒー(とか)が楽しめることだと思うんだけど、そこから破壊してくることで自覚させるなんて、このウイルスは、なんていやらしいんだろう。
こうすれば生きられるってな標準なんて無くなった。
誰もが大小、大変さを抱えているし、誰もが自殺しても不思議ではない。
そこを踏まえて、なんとか優しく振る舞いつつ、生きていくしかない。
ふと、高校時代のもう亡くなった同級生のことを思い出す。あの方とはあまり話さなかったが、なかなか存在感のある素敵な人物であった。
高校を出た後、何年かした当時、かの人はブログのようなホームページ(当時、ブログという概念はなかった)をやっていた。
死因は存じないが、必然なのか偶然なのか、最後の日に書き残したのが、好きな音楽を聴きながら、
「わたしだってしあわせになりたい」
だったと記憶している。
漢字変換までは覚えてないけれど。
そのサイトは今はHPスペースのサービスが終了してしまったし、そもそもURLも手がかりになるキーワードもないので探しようがないが、ともかく、そう書き残した同級生がいたのだった。
もし、かの人が今の時代に生きていたら何を書いてくれたのか。
例えば人が亡くなるってそういうことだ。もう分からないということだ。
あるはずもない標準を求めて思考実験の試行錯誤をしてみたが、結局は徒労だったようだ。ただ、日々が一見、徒労の積み重ねになるにしても、何かを積んだことの意義はあるとは思いたい。何も想定ができないし想定したところで裏切られる可能性を大なり小なり孕んでいる今の時代、少しの時間を費やして、小さな石を積んだことくらいは、ささやかに誇っても良いのではないか? 誰に何かを言うわけでは、ないけれど。

*1:マスクをさまざまな要因で付けることができない人のことも想定して欲しいものだけれど。