セーラームーン第4部後編

ようやく見に行けたセーラームーン第4部後編。
敢えて採点するなら、前編の方が面白かった。個人の主観ではあるんだけど、セーラー戦士のキャラクターも、3人の小ボス的敵キャラも、生き生きと活躍していた感。それから、綿密に取材したであろう今の麻布十番の街*1の描写。地続きの現実+IFの面白さ。特に敵キャラのセリフではあるんだけれど「夢を実現させるには努力しなければ」っていう、月並みなセリフがグッと沁みてくるまこちゃん編はすごく良かったし。亜美ちゃんにしろレイちゃんにしろ美奈Pにしろ、それぞれの葛藤と克己があって良かった。前編は。
それに、ちびうさも可愛かったし、エリオスとの邂逅も不思議感満載。ザ・少女マンガ! ってな感じ。
しかし、後編は、なんか色々とシチュエーションが勿体無かったのと、ストーリーとイベントありきで半自動的に進んでいく型通りのRPGみたいな感じがしてしまった。つまり、セーラー戦士全員が目覚め、その力を集結して……云々と、セーラームーン賛美の連続で飽きてしまったというのが正直なところ。
セーラー戦士はそれぞれに魅力的なキャラクターなのに、個別のドラマを掘り下げつつの群像劇にするには「なかよし」のフィールドは狭過ぎたんだろうか。それとも、ヒロイン戦隊としての限界なのか。
絵は綺麗だったが、長台詞でシチュエーションを説明する場面が目立った気もする。
でも、漫画原作で読んだときには、その辺りは気にならなかったわけで。
やっぱり、セリフや文章で説明するのが当たり前の漫画と、動きで説得するアニメの違いがあるのに、このシリーズは漫画の方法論をアニメに持ち込み過ぎたんじゃないだろうか。
それから、尺の問題。どうしても変身シーンとかを詰め込まざるを得ず、緩急をつけるというより急の連続で畳み掛けてこられて、見て疲れてしまったなぁと。もう少し微妙な間を活かしてほしい感じだった。タイトルも変なタイミングで表示されたし。
ところで。この続きは最終第5部な訳だけど。あの話を原作通りにやるとすると、最終的にセーラームーンは宇宙の神になってしまうんだよなぁ。紙の上では一つの結論、セーラーサーガの帰結として綺麗にまとめたなと思っていて、あのラストは個人的には好きではあるけど、どういう風にアニメ的説得力を持たせるんだろうなぁ。
漫画なら毎月のページ数も限られるのが逆に奏功して、主人公にターゲットを絞って主人公賛美一点突破でもそれが面白い作品になったりするんだけど、アニメだといろんなことが出来すぎるので、キャラクターが立たないと物足りなくなってしまう。でもそこまでやると、映画館でやるにはいささか短すぎてしまう。一応、枠としては子ども向けではいなくてはならないので、やたら長時間にするわけにいかないし。だからこその前後編だったのかもしれないが。
やっぱりセーラームーンのアニメは週次更新、毎回20分強とかやれるテレビ向きだったんじゃないかと。
かぐや姫の恋人」編くらいのシナリオならともかく…。

*1:そういえば例の万華鏡のお店はホントに麻布十番にあるんだそう。サラッと買ってあげてしまう衛さんはやっぱりイキだねぇ。

標準なんてあるわきゃない

システム標準ではこうで、ユーザーがやりたいことはこうだから、まあこの程度のことを想定しておくべき、とサックリと分析する脳の働きには、仕事のせいなのか何なのか、ともかく自分は慣れてしまったらしい。
想定するから想定外のことが起こる。起きてからあわてるくらいなら想定なんかしなけりゃいいのに、想定なしでは何の準備もできなさすぎる。よって人は何かを起こす前には何かを想定せずにはいられない。それが人間の文明文化を一歩先に進め続けてくれたのかもしんないけど、今のコロナ渦では時にそういうのが邪魔になる気もしていたりする。
想定外ってのが陰ながら流行語なんじゃないか、と、こっそり疑惑を個人的に抱えるくらいには、この国は異常な状況にあるらしい。なに他人事のように書いてるんだかと、自分なりにも呆れるが、実際、どこか他人事のように見えているのが実感だからだ。
さっきから何のことを書いているのか。特にマスク生活のことを書いているつもりだ。マスクなしでは今は社会に出ることができない。いつのまにかルールやマナーがそうなった。何月何日何時何分何秒からとかは実のところは分からないが、強いて言えば昨年の緊急事態宣言の1本目あたりからそういう空気になっていった感覚はある。おかげで東京は都市の規模の割には、海外に比べて罹患者が少なめのように思う。それでも同じ病気で毎日数百人が報告されるのは、やっぱり異常なことだとは常に思うのだけれど。
で、数年前までは夏にマスクを全員がつけるなんてことは標準外のことだったのに、去年の夏に都内で売れた商品のひとつは、間違いなく夏向けに開発された布マスクの類であろうと思う。統計とかは知らないが、おそらく。
つまり、マスクしてから外出するのが今の標準だ。もしそれをしなかったら、訪問先によってはサービスを受けられないことも想定*1される。もちろん自分も、もしかしたら潜在的罹患者かもしれないという疑いを、東京新宿駅ユーザーとしては常に抱き続けざるを得ないというのもあって、マスクは日々付けている。
5年前には考えられなかった。やっぱり、本物の標準なんてあるわきゃない。数年前の想定? 参考になるわけないだろ。今は生活の、人生のルール自体が変わっちまったんだよ。それが実感だ。
そんなことを自問しながらなんとか細々と生きていたが、結構、疲れたなァ。
ものすごいことをしたいわけじゃないけど。
ちょっとしたことに、やいのやいのやいのやいのやいのやいのやいのやいのやいのやいのやいのやいの、と、制限がかかるというか、自主的に制限をかけまくっている今の状況は、疲れる。
自粛要請っていう言葉は矛盾していると思っているが、プロパガンダとしてそういうスローガンが罷り通っている。まあ、言いたいことは分かるし正論だし、みんながマスク1枚付けさえすれば、見知らぬ誰かをあの世に送ることも、自分が送られることも可能性は下がるので、あまり正面から批判は出来ないけど、日本語として変じゃない? とは思っている。自粛って、自分から周りのことを考えて自発的に行動を慎むことだろ? それを要請されるって何なんだと本当にめちゃくちゃ矛盾しているとしか思えない。
こんなこと、他人から言われる筋合いは、本来なら、ない。なので自分の感覚を信じるなら日本語として変だと思う日々なんだけど、日本の法律では別に何か犯罪をやらかしたわけでもない人たちに法律に基づいた行動制限をかけることができないらしいので、まあ、こういう変な日本語におさまってしまって、なんとなく喧伝されてるようなのだ、どうやら。
ここにも見えない想定外がある。自粛って言葉が想定した範疇と、要請って言葉のそれのせめぎ合い。
そういう、目に見えない細かな想定外が積み重なって積み重なって。そういうのがとこかで一気に爆発する時がいつかくるのではないかと思う。
仮に、何年後か分からないが、コロナの収束宣言が国内向けに出されたとする。
その日の夜の渋谷のスクランブル交差点が怖い。再度、大クラスターが発生しかねない、と、疫学的には分からないけど何となく想定してしまう。
病気が無くなったという標準想定で人が集まったら病気が発生した。それはまた想定外なのだ。
やっぱり、想定なんかしない方がいいんじゃないか? と疑問に思いつつ、想定教に殉教せざるを得ない日々。そんなものは宗教ではなく概念でしかないから誰も何も救ってくれない。
人が集まるだけでどこかしらで感染が発生して死者が出る。極論すれば感染症はそういうことだと理解している。人間は社会的な生き物なのに、社会性を真正面から否定してかかられる。つまりこの事態は、見えない世界から人類が攻撃されていることそのものなのだろう。戦争なんだ。ある意味では。だから日本史で学んだような、戦時中のような雰囲気をうっすら感じてしまうんだ。みんながある種の怯えを持って、みんながある種の警察になって。マスクが心理的に息苦しくて当たり前だ。今のマスクは高性能だけど、物理的な圧迫感はやっぱりそれなりにはあるけど、そういうことではなく。
戦場のようなものであって戦場そのものでもないというのが、これまた矛盾していて気持ち悪くて面倒くさくて仕方がないが、ねっとりとしたその空気感、圧迫感、真綿で締め上げられるようないやらしさにも、耐えて生きていくしかないのだろう。
せめて、自分は味と匂いがまだ日々分かっていることに救いを求めたい。人が生きることに必要な小さなことは、やはりご飯が美味しいこと、コーヒー(とか)が楽しめることだと思うんだけど、そこから破壊してくることで自覚させるなんて、このウイルスは、なんていやらしいんだろう。
こうすれば生きられるってな標準なんて無くなった。
誰もが大小、大変さを抱えているし、誰もが自殺しても不思議ではない。
そこを踏まえて、なんとか優しく振る舞いつつ、生きていくしかない。
ふと、高校時代のもう亡くなった同級生のことを思い出す。あの方とはあまり話さなかったが、なかなか存在感のある素敵な人物であった。
高校を出た後、何年かした当時、かの人はブログのようなホームページ(当時、ブログという概念はなかった)をやっていた。
死因は存じないが、必然なのか偶然なのか、最後の日に書き残したのが、好きな音楽を聴きながら、
「わたしだってしあわせになりたい」
だったと記憶している。
漢字変換までは覚えてないけれど。
そのサイトは今はHPスペースのサービスが終了してしまったし、そもそもURLも手がかりになるキーワードもないので探しようがないが、ともかく、そう書き残した同級生がいたのだった。
もし、かの人が今の時代に生きていたら何を書いてくれたのか。
例えば人が亡くなるってそういうことだ。もう分からないということだ。
あるはずもない標準を求めて思考実験の試行錯誤をしてみたが、結局は徒労だったようだ。ただ、日々が一見、徒労の積み重ねになるにしても、何かを積んだことの意義はあるとは思いたい。何も想定ができないし想定したところで裏切られる可能性を大なり小なり孕んでいる今の時代、少しの時間を費やして、小さな石を積んだことくらいは、ささやかに誇っても良いのではないか? 誰に何かを言うわけでは、ないけれど。

*1:マスクをさまざまな要因で付けることができない人のことも想定して欲しいものだけれど。

最近驚いた本(読んではいない

最近、ネットで存在を知って驚いた本。
それは獣人の描き方の本。
シリーズになる程、売れているらしい。
ただ、このダイアリーはアフィリエイトとか宣伝目的ではないので、気になる人は検索である。敢えてリンクは貼るまい。
ともあれ、世の中は広い。架空生物を解説した本とかはたくさんある。
たしか、キン肉マンを真面目に子供向けの図鑑にした本もあるって聞いた。
しかし、ファンタジーに出てくる獣人の紹介の本ではなく、描き方の本があるとはすごい。しかも複数冊出ているという。
描く人がたくさんいなければ売れるはずがない。需要がないのに供給が続くわけがない。
でも、考えてみれば、鳥獣戯画が日本の漫画の原点だし、擬人化とか獣人とかは日本人のDNAか? となると納得できるかもしれない。
よく、満月には、月にウサギがいて餅をついてる、という。この言い伝えもどこかしら擬人化している。
よく考えたら、月にもウサギにもお餅にも脈絡ってもんがないはずなのだが。
ところで。月とウサギといえば。
「うさぎちゃん! 変身よ!」
である。
悪はおしおきされるのである。月に代わってティアラでぶたれるのである。そこはお餅つきのキネではなく、あくまでティアラなのである。なぜなら、少女漫画だからである。そして、頼まれたわけでもないのに美少女戦士って自分で言っちゃうんである。ああ、こんなにメンタルが強いのであれば勝ちようがない。妖魔の皆様もお疲れ様なのである。
ともあれ、月にウサギがいて餅をついてるって言い出した人はどなただろう。かつての読者としては何かお礼をした方がいいのだろうか。
そういえば映画の後編をやってるんだった。時間を見つけて見に行かねばなるまい。感染対策を入念に。
アニメといえば、月のうさぎがティアラを使う話だけではなく、黒と白の月がなんちゃらの巨大人造人間が大暴れ話の完結篇はいつやるんだろう。こっちにもかのウサギの中の人は出てくるわけで、なんやかや月つながりである。はやく公開して欲しい物であるが、コロナ禍が治らなければどうにもならんということか。はあ、終わりが気になって夜しか眠れない。
それにしても、いやはや、月も罪作りである。かようにも、人の心を乱すとは。

やりたいことの障害は外せ

事前に考えすぎてムダに障壁を上げてしまったら、下手すりゃあ、やりたいこともやれなくなる。
大事なのは、やれることをやりながら考えていく……となると。
まず、開発環境……は、引き続き探す。ココロ当たりがないわけでもないし。ただ、文献やサイト読んでもちょっとピンときてないだけで。それと、制作物をエンドレス展開させる段になってMacでうまくいきそうか文献、サイトでは不明すぎだった。
で、懸案のOHC。
もし、今回ばかりは、来館者さんに何かしてもらってその結果を取り込んでリアルタイムに変性させるという、今までコアになっていた部分をやめるとどうなるだろう。
事前にエンコーディングした映像を展示するだけなら、それこそDVDのエンドレス再生にまで敷居を下げることができる。あれなら、何かあっても当日の対応は簡単だ。最悪の場合でも、電源を抜いて挿し直してもらえばいい。
実際、そういう、体験型ではないCGムービーならいくらでも例はあるし、いろんなことをやってる人は多い。
コロナ対策のために、体験できる部分をオミットし、経過の紹介や結果だけを提供するということは、現在いろんなところでやっている。大学のオンライン授業なんかはある意味で最たるものかと思う。特に体育科目とか。本当は、体験してもらうことこそが大学教育だとやっぱり思うんだけど、本当にコロナが恨めしい。自分は先生ってわけじゃないけど(とある大学様のPCサポートに在籍させてもらい、先生方や学生さんたちがこんな世界史的にも稀に見るすごく変な状況下でも、なんとかそれなりに授業はできるようにお助け申し上げてる感じのお仕事)。
あ、脱線した。ま、いっか、自ブログだし。
うーむ、体験型コンテンツ、から、体験型、を引くと、ただのコンテンツ、になっちゃうなぁ。
当日のこととかはラクできるけど、それはやりたいことなんだろうか。
ただのコンテンツ、って言うけど、ものすごいものはものすごいんだし。
試作品を出すのは違う気がする。
というか、それはやりたいことではない気がする。やっぱり。
ただのコンテンツにしちゃうと、そのコンテンツ自体の価値とかクオリティが問われる分野になるけど、そういうのを作りたいわけじゃない。
それに、お客さんから離れてしまうし。
前に、カレイドスコープの体験展示をやったときに映像化も1本だけしてみたけど、例えばあれにGarageBandサウンドをつけてiMovieで合成して、エンドレスで流せば簡単に作品ができるけど。
そういうことになっちゃうんだよなぁ。それでもいいのかなぁ。
あれを展示するなら、プロジェクターじゃなくても、最近テレワーク用に数万円程度で売られているポータブルディスプレイとかに、昔、職場の飲み会でもらったDVDプレイヤーをつなげばできそうだけど。8時間程度の連続再生に耐えるポータブルディスプレイは、まあなんかあるとは思うけど。その二つならレンタルでもいいし。
前の展示の振り返りをやってみるのも、まぁ、悪くはないかなぁ。
現場での作品展自体ができなくなったら、YouTube配信とかでも可能は可能だし。やることは同じなんだから。
必ずしも、良いと思っているわけじゃないけど、二次案としてはアリかなぁ……。
今、確認したら、作ってある映像は2分ちょい。この種のムービーとしては長すぎず、短すぎずと言うところかな。5分だと長いし、15秒じゃワケがわからないし、2分くらいのサウンドなら、大学の時の経験もあるから、そこそこなんとかならなくはなさそう。ガチの純音楽を作るというのでもないから、今まで作ってた曲から引っ張ってくるのもありだし。
つまるところ、なんか1人だけ変なことやってたけど結局アレはなんだったの紹介か。まあ、悪くはないかなぁ。ちゃんとわかりやすく語ったことはなかったし、今後展開する上でツールがなくて心底から困っているのは本当だし。ツールを探す時間が欲しいのも本当だしなぁ。

夏の作品どうしよう。

夏の作品展の制作で悩んでしまっている。
まあ、そもそも開催できるかどうかも色々と微妙すぎる情勢だが、ものを作る下準備はしておきたいし、やっぱりMacは好きだし。
今までは、主にMac OS Xユーザなら皆が無料で使えるQuartz Composer(QC)で体験型コンテンツを展示していたのだが。
現在のmacOSでは動かない。純正ツールなのに残念すぎる。
というか、今、QTZ形式のコンテンツ開発をやってる人って何を使ってんだろ。まあ、QTZ形式自体がもうFlash並みに過去のツールなのかもしれないけど。
もともと、スクリーンセーバーを自作できるとか、VJとかのアートでは需要があったけど、多くの人が普段から使うようなもんじゃないからなあ。それこそ.docxみたいに需要があれば違ったんだろう。
ともあれ、macOSの標準機能で再生できて、自動リピートできて、インタラクティブ機能を作れて、制作ツールがノンコードなビジュアルプログラムで、リアルタイムレンダリングで導入費用が廉価。
こんな条件を満たしてくれるツールはなかなか見つからなくて。
別にプログラム言語やりたいわけではないし。仕事でちょっとした便利ツールを作るのにVBAは少しかじったけどさ。本当に少し。
ってかそもそも、自分がやりたいことってなんだろう。
結局そこに戻ってしまうんだよなぁ。AppleさんがQCを廃止したのは本当に残念だけど、本当にインタラクティブコンテンツを作りたいなら他のものでもいいんだし。
インタラクティブコンテンツの一般化といえば、Nintendo Laboってのもあったな。
あれって考えてみたら、やってることはファミリーベーシックといっしょ。根幹的には。
家庭内にある程度ゲーム機が入り込んだ後で、子どもが使えるプログラミング環境を追加販売して、コンピュータの楽しさを啓蒙するビジネス。
ファミリーベーシックが出たのは1984年らしい。

ちなみにファミコン本体は1983年。

こんなに昔からやってることだったんだなぁ。すごいな、任天堂さん。
まあ、自分がインタラクティブコンテンツの展示でやりたかったことも根っこは同じで。
インタラクティブな体験場所の提供をしたいっていう作品なんだよな、あれらは。
超簡単なことで、変な映像が作れる。クセになる映像体験。
前にやったのは、おはじきをスキャン台に乗せるだけで、カレイドスコープが映るやつ。普通の万華鏡と違うのは配置をいじれること。投影物がリアルタイムに動くこと。オリジナリティとかはあんまりこだわってなくて、たまたま遊びに来てくれたお客さんが、普段やんないだろうデジタルの端っこにでも触れて遊んでくれたら余は満足じゃ、というやつだ。
で、原点に戻る。
ああいうのを作るのは、まあ、やりたいのかもしんないけど。うむ。
現場で簡単に管理が出来ること。
新OSに対応していること。
制作環境の習得が比較的簡単なこと。
それから、展示機材の負担について。プロジェクターとスクリーンなんかは持ってるからいいんだけど、暗室を作るところをもっと詰めないと。まあ、一応、できそうだけど、それ本当にできそうか? ってあたり。
あと、コロナ禍での展示であること。つまり、あんまりみだりに触るモノは作れなさそう。あと、飛沫対策も考えないといけない。だから、なにか共有物を置くとか、コントローラーを使うとか、ボイス(声)を録るとか、打楽器を使うとか、そういったものは無理。ダメ。禁止。
手で影絵的なやつとかならなんとかいけるか? スキャン台は触れなくても使えるようにして、ユーザーやスタッフが消毒可能な材質にしておけば。
となると影絵の画像処理もリアルタイムレンダリングになるし、カメラにオートフォーカス欲しい。
結局、やりたいことを叶えてくれる環境に、すごいお金がかかってしまいそう。理想的なカメラはOHCとかになっちゃう。業務用かって。安いのでも買うと5万は超えるし、レンタルでもいいけどよほど良いのに当たらないとキツいし、事前テストも3回くらいはしたい。
前にやってたwebカメラならなんとかなるかもしれないけど水平に使うために作られてはいないから加工というか、なんかしないと。お前さんにそれってできんの?
で。
本当にどうするかなあ。
あー、このグルグルまわっちゃってる状態自体が、すでにアートに思えてきた……。こりゃあかんわ、はあ。ムダにハードル上げてるだけかもしんないなぁ。

震災の話とべテルギウスの寿命のニュース

日曜日の昼下がり、震災の体験話を延々とやっているNHK。現場の人たちの話はやっぱり重いなと思いながら番組終了後もテレビをつけていたら、15時のニュースの一本目が下記。

震災は怖いぞと足元に怯えていたら、遠く遠くなスペースロマンのニュース。いやぁ、なんだか面白かった。真面目なニュースなのは分かってても。東大の皆さんお疲れ様です。本当にすごい発見だし、こういうの、何でそんな遠くのことがわかったの? って、いつもそうなる。研究ってすごいな。
ともあれ2本目がロシアでの新型コロナウイルスワクチン承認のニュースで、今ならこっちを一本目にしそうなモノ。おそらくニュース番組のディレクターさんが、手元のニュースの報道順を考えたときに、この時間帯のニュース番組を目的でテレビをつける人はあまりいないだろうことから前の番組との兼ね合いを考えて決めたのではないか? とか思ってしまった。今ならどう考えても新型コロナが優先だろうし。
全〜部、憶測。まァ考えすぎだと思うけど、何にしても宇宙って大きいし、地球も結構でかいし、人間はちっぽけなんだよね。まぁ、それなりに生きましょう。
それにしてもさっきまでやっていた、陸前高田消防団員さんの話。震災直後も直後、まだ余震もある中での被災者捜索時。急場で団長さんが出した指示の的確さは頭が下がる。現状確認、外で起こりうる障害、そしてとりあえずの最終目標まで手短に指示していた。
現状=余震や津波がまだあるなど。
過程=周辺の探索、住民に津波を知らせ高台へ避難。ただ、外で遺体を見ることになるかもしれない。
目標=どの道をたどっても良いからとしつつ、明確な集合場所を指示。
それにしても彼らは消防団の方、つまり、一般市民なのである。プロというわけではないのに責任が重いなぁとも思った。実際、遺体を見たりとかあったと思うし、例えばPTSDになったりとかしてても無理はないかと。公務員の消防隊員とかなら普段から鍛えるのも仕事のうちだろうし、心理面を鍛える演習とかもありそうだが、消防団員へのフォローはどうなっていたのだろうなぁ。ある意味、地元を守る愛や責任感やプライドだけでやっていくのは大変そうに思える。
それから、震災直後に自治体が連日配った臨時広報紙の話。ついフォントを見てしまった。ぱっと見だけど普通の明朝とゴシックだと思われる。しかし、行間の取り方、フォントの変え方、つまり情報の軽重をかけるメリハリの付け方が、あの想像以上の急場でもこんなに見やすく作れるんだなぁと感嘆した。普通のツールで凝らずにしっかり伝える公の強さ。
それに、このレベルの緊急事態では、テレビやラジオも良いが、よりしっかり読み直せて共有しやすい紙の情報はありがたかったろうな、と思った。
ただ、今はあまり広報紙が読まれていないとのこと。平時だからということではあるが、もったいないようにも思える。結局のところ、地元に生きるしかないわけなのだし。
それにしても、隣近所の人を知らない東京でこのレベルの震災が来たら、自分も含めてみんな自分が優先になって他人を救う気持ちの余裕を持てるかどうか不安だ。
知ってる人かどうか、差はそれだけなのに。

2/13(土)深夜の大地震での関東停電について

そういえば、2/13(土)深夜の大地震。かなり揺れたので、関東圏内で大規模な停電があった。
あんまり広く停まったようなので、メモしていた。後学のために書いておこうと思う。

1都8県で83万軒が停電
2/13(土) 23:53 共同通信
 東京電力パワーグリッドによると、午後11時44分時点で、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、山梨、静岡の1都8県で約83万軒が停電している。

東京電力パワーグリッド』より、2012/2/14、午前0:03ごろメモ。
https://teideninfo.tepco.co.jp/
全域 停電軒数:約829540軒
茨城県 停電軒数:約72160軒
栃木県 停電軒数:約230830軒
群馬県 停電軒数:約32840軒
埼玉県 停電軒数:約4240軒
千葉県 停電軒数:約41070軒
東京都 停電軒数:10軒未満
神奈川県 停電軒数:約196730軒
山梨県 停電軒数:約77010軒
静岡県 停電軒数:約174670軒

ちなみに当日は東北電力の同じような停電状況ページはサーバが混んでいてつながらなかったのでメモ出来ず、そのまま眠ってしまった。
ともあれ、東京都管内の10軒未満、というのがすさまじく守られている感を覚えるところ。そして、静岡でも停電があったというので、あの地震のエネルギーの強さを感じるデータである。