ルールの理由

今朝、牛乳を熱くしすぎて舌先に軽い火傷をしてしまいました。
トロンボーンタンギングには大きな影響はありませんが、やっぱり思い切ってはやりにくいですね。どちらかというと気持ちの問題ですが……。


中学時代、コンクールの1週間前になったら、熱いみそ汁と炭酸飲料は禁止だったのを思い出します。舌を守るためと喉を痛めないためですね。そういえば楽器の細かい手入れも1週間前には終わらせておくように言われていました。直前にやって調子を壊したら大変だからって。細かいルールにもちゃんと理由付けがあったので、結構素直に守ることができたと思っています。


何かルールを守らなくては行けない、といわれたとき、『それがルールだから』の押しつけじゃあヒトは守らない。守られないルールには意味がない。多くのヒトがそれを守るためには納得できるだけの理由がないと行けないと思いますし、理由があっても現状に即して考えてみて実行性が低かったり実効性が無かったりしたらそれもまた意味がない。


中学の時の部活の決まりって、理不尽な物も多かったですが、理由がちゃんとしている物もまた多かったので、今更ながらそこから学ぶこともあると思っています。敬語や礼儀、上下関係、連絡事項の伝達方法、ミスがあった時の謝罪の仕方、楽器を大切にすることなど、理由がないものではなかったし。つまり、これらのルールの目的は、ヒトを敬うこと、組織の運営方法、モノを大切にすること、適度な緊張感で集中して練習することなどなどで、今見直してみるとなかなか面白いものだなあと。中学の部活とはいえなかなか侮れない物があります。
実は名前は敢えて出しませんが、母校は日本の戦後吹奏楽史に必ず出て来る伝統校だったので、コンクールで高成績が残せなくなっていた私たちの世代でも伝統の練習方法とルールは残っていたんですね。時間の経過により形骸化してしまった部分もあれば、実存として生きていた部分もありました。
その辺りの価値は、当時は全く分かっていなかったのですが。今になるとなぜあの決まりが伝統として残っていたのかが良く分かります。惜しむらくは私たちが3年生になった時に、自由さが欲しくなって大半の部活の決まりを事実上の廃止にしてしまったこと。決まりだから守るのではなく、なぜ決まりがあるのかを考える智恵が欲しかったですね、あの時に。継続と廃止のどちらが本当に後輩達のためになったのかどうか、今となっては分かりませんが。


規律や良識といったことを死語にしてしまうのは、何か大切な物を捨ててしまうことに等しいのではないでしょうか。
日本の全国でヒトをヒトとも思わないような変な事件が多い昨今、ヒトを敬う良さが見直されても良いと思うのですよ。
中学時代の生徒手帳に書き写されている当時の部活の決まりを見ながら、これは再評価されてもいいのかもしれないな、とも思えました。決まりを守ってみて、何のための物なのか納得できることだってあるし。
音楽に限らず、剣道なんかがそうなんじゃないかと思うのですが、なぜ試合の最初と最後は礼で終わるのかとか。やっぱり、礼をして試合をするのとそうではないのとでは、剣技のキレも技への集中力も違うでしょうし、勝った時や負けたときの気持ちも違いますし、礼によって相手を認めることもできて、……win-winの関係? のようなことになるのではないかなあと。
そんなことをつらつら考えています。


ともあれ、火傷が本番前とかじゃなくて良かったです。熱い飲み物がおいしい季節ですが、これからは気をつけます……。