『違う』人に寛容な日本人でありたい

最近、いろいろ身の回りでありまして。
自分と違う……というか、違いすぎる人に対して、『キモい』とかってレッテルをくっつけているタイプの人は、程度が低いなあと思うようになりました。
なんだろうなあ、そういうことを公衆の目の前で平気で言い散らしている人って『わたしは偏狭で偏見のある差別主義者です』って看板を背負って宣伝しているようなものだって思うのですが……。
それから、もうひとつ。『キモい』って言葉を喜んで遣っている人って、たいていその価値観を周りの人と共有したがるようなんですよ。
「うちのクラスの****くんってなんかキモいよね〜」「そうそう」
っていうような感じで。
それって、自分のシマを守りたいだけなんじゃ……。もっといえば、人を小馬鹿にする価値観を連帯してどうするんだろうなあ、と、思ったり。自分に自信が無ければ社会に出る勇気もないことをくだらない連帯感で糊塗しているだけなのでは。


でも、考えてみれば、ある程度までは仕方がないのかもしれません。
日本人はよくも悪くも、たいていのところまでは同じような人が集落を作って生活して来た民族です。
歴史上がそうだし、生活環境的にもそうだし。
だから、子どもの頃にトイレトレーニングをするのと同じような感覚で、異文化トレーニングを受けた経験がある人はほとんど居ない。
自分と違う人を見たときに、防御的な、閉鎖的な反応になってしまうのは、教育環境上仕方がないのでしょう。
トイレに行きたくなったらトイレで用を足す。
同じように、自分と違いすぎる人を見かけたときも、何とも思わない。
そんなふうに心理反応できるような人が育てにくい環境です。親がそう育っているのだから、子どももそれを受け継いでいても当然。


ただ、だからといって、人にたいして「キモい」とか言ったりすることが肯定されるワケではありません。
それは差別。
大切なのは、「違う」人に対して防御的な反応をしてしまったとしても、自然体で接するように気をつけることなんじゃないかな、と思っています。反応自体を恥じたり、それによって自分を責めたりする必要は無いと思います(仕方がないことなので)。防御的な反応までコントロールするのには、なにかしらの訓練を積まなくてはならないでしょう。
ただ、差別しないようにするのは、心がけ次第で出来ると思うのです。
わたし自身、そうありたいと思っています。