実感排除社会で生まれてきたもの

このごろ、妙によどんだ時代の空気が蔓延しているように思われる。目の前で何が起きても、映像の中の無関係な事件にしか見えないような、そんなあいまいなバーチャル感だ。
そういえば、例の911、2001年9月11日に発生したテロ事件も、まったく実感がなかった。特に、航空機2機で突っ込んでツインタワーを破壊した映像は、ニュース映像というよりCNNが映画をやっているようにしか見えなかった。911から5年後に書いた回想は以下にある。


その後、あるひとつのまとまった観点から、事件の実相を知る機会があった。マイケル・ムーア監督作品、ドキュメンタリー映画華氏911」である。公開当時の感想は以下で書いた。


しかし、http://d.hatena.ne.jp/Yuny/20081013/p1で考えたように、ドキュメンタリーはどうしてもどこかしら主観の産物になる。
乱暴な言い方をすれば、たとえドキュメンタリーであろうと、映像はすべて虚構なのかもしれない。多くの事実が含まれてはいるが、ある視点から撮影され、編集され、BGMが入れられ、スポンサーの意向に合わせてシーンがカットされたり表現がいじられたり……放送時間に合わせて重要なシーンが切られたりもする。
ともかく、事件そのものではないのだ。
しかし、現場にいなかった人間が、事件をそれなりに知るためには、ドキュメンタリーやニュース、新聞、ルポルタージュといった報道やメディアに頼るしかない。
そういったことを念頭に置きながら、以下の記事を読んでみた。


これを読みながら、危惧していることがある。実は彼らは、一般に分かりやすい言葉として「加藤容疑者」というシンボルを選び、動機として「死刑になりたい」などと言っているに過ぎないのではないか?
うそは言っていないだろう。彼ら自身も今さら隠しても何にもならないと知っているだろうし。
しかし、彼らは本当のことを語っているのだろうか?
実は彼らは、自分でもきっかけや動機などは分かっていないのではないだろうか? 分かってはいないのだが、調書に取られたり記事に書かれたりするためには、それなりに「コトバ」にしなくてはならない。刑事さんも記者さんも仕事だ。それなりのコトバを預からなければ帰ることが出来ない。だから、分かりやすいながらも異常なコトバで説明しているのではないだろうか。
自白の強要ということを言っているのではない。事件が事件だから、刑事さんにしろ記者さんにしろ、極めて慎重に質問しているだろうと思う。しかし、彼らからはこういった一見信じがたい言葉しか出てこない。なぜだろうか。


……実は、彼らには動機がないのではないだろうか?
理由など、ないのではないだろうか?
現状がともかくいやだからと「なんとなく」実行してしまったのではないだろうか?
それをあとから理由付けするために、「加藤容疑者」「死刑になりたい」といった言葉を遣っているだけではないだろうか。


この直感には証拠など何もない。
ただ、さまざまなことがパッケージ化され、ナマな部分は隠されている社会に生きているからこそ、こうした事件が起こっている気はするのだ。
たとえば、肉を食べたいと思ったとする。昔……といっても100年としていないだろうが……であれば、鶏をほふり、血を流して、皮や臓器を取り去り、肉を得ていただろう。今では、そういったことは業者が代行してくれる。肉はパッケージに入っている。魚はまだ全身を販売しているが、切り身も多い。少なくとも、三枚に下ろす方法を知らなくても、生きていけないわけではないだろう。コンビニ弁当で一生過ごすことは物理的には可能だ、という考え方もある。私には幻想に思えて仕方がないが。
ともかく、生命を維持するためにクライシスを経験する必要性は、この社会から消されていってしまった。大きな魚を捕ろうとすれば自分が殺されるが、小さな魚なら何とか捕れるだろう。そういう、自分の生命能力を測りながら出来る技術を使って生きていく……大切な経験を。誰でもお金さえあれば、本マグロも食べられる。すばらしいことではあるが、大切なことと引き換えになっている……。


そして、動機が無くともなんとなく生きていける社会が構築された。だから、犯罪の動機すら、自分自身の言葉で語ることが出来ない。借り物のコトバで語れば、周囲は納得するから、自分でも分かっていない本心を無理に語る必要が無くなる。彼らの言い分が演劇的じみているのはこのためではないだろうか。私には本心を言っているとは思えないのだ。
彼らはしてはいけないことを犯した。しかし、してはいけないことをする人を、私たちはこの社会から生み出してしまった。そのことをもっと正面から考えなくてはいけないと思う。彼らはモンスターではない。人間なのだから。そのためにも、彼らにはどんな動機でもいいから、本当のことを語って欲しいと思っている。


それから、報道機関諸氏、警察関係者諸氏に願いたい。どんな説明不能な動機でもきちんと聞いてほしいと。ある種の答えを期待したような聞き方をしてしまうと、なぜこんな方法に出たのかを知ることが出来ない。言うまでもないことだが、こんな事件はもう繰り返すべきではないのだ。そのためには、正確に知ることが何よりも望まれる。被害にあってしまった、亡くなられてしまった人々を無駄にしないためにも。悪いのは何だったのかをいたずらに捜し求めるのではなく、ともかく先入観なしで真実を聞いて欲しいと思う。悪いのは何か、悪因探しは真実が明らかになってからにするべきだ。


そして、私にとってドキュメンタリーについて考えるきっかけとなった911の事件も、何故だったのかを考えなくてはならないだろう。同じ地球の上で起きてしまった過ちは、自分と無関係ではないのだから。