はてなスターとサイレントマジョリティについて

よく分からないうちにはてなさんてば、日記に星を付けてくれたらしい。あと、メッセージ機能とかも。
それらの是非については、まあ、いろんなブログでワラワラ言ってるし、はてなブックマークとかを見ていれば議論の推移は分かりそうだから、まあ、そういうのには触れないでおく。
ただ、この機能を付けたい人と、付けたくない人の、選択権くらいはあってもよいとは思うけれど。


で、個人的に何がいいたいかって。
機能の面白さとか意義とか、はてなスタッフの思惑とかユーザーの反発とか……そういう、はてなやネットに「参加」できてる人は、勝手に議論するなり利用するなりはてなを使うなり去るなりすればいい、と思う。


そういうことの選択権……参加権とでもいうのだろうか。インターネットとかパソコンとかを嫌いだったり、できなかったり、環境的に触れることができなかったり……そういう、権利を得られない人たち。つまり……、どうしても、そういう、デバイドの下の人たち、置いてきぼりの人たちが気になって仕方が無い。
ようするに、ITを使えない人たちだ。使いたくても使えないとか、分からないとか。


言うまでも無く、パソコンは「道具」だ。
ただ、それがたとえばカッターで鉛筆が削れない人は鉛筆削り器を使えばいい、みたいな、適当な代用手段のある道具じゃない。
使えなければ生活にも差が付いてしまうし、使い方しだいで人間性すら変化してしまうキケンな道具だ。
はてなスター騒ぎを見ていて、そこらへんの参加できないサイレントマジョリティ的な人たちのことを考えていた。


単なるはてなユーザーで、というより、ダイアリーしかはてなに求めてない人たちだって沢山いるだろう。はてながネットのポータルとして使い込んでる人たちだっているだろう。
でも、今のはてな……というか、各種の日本の、世界の、インターネット企業そのもの、は、いったい誰を見つめているのだろうか。
できるようになった人たちに向けて新サービスをバシバシ出して、パイの奪い合いをしているだけじゃないのか?
ネットに付いていけないからって、絶望的な気分でPCという機器を見ている人たちがいる、ということを忘れているんじゃないのか?


先日の「イマキュレートハート作品展」で楽器+写真のインスタレーションアートを出してみた。
でも、楽器を吹いてくれる人はほとんどいなかった。
展覧会というのは受身で干渉するものであり、自分から作品をいじって変えて使ってみていいという参加型の閲覧者は日本人には本当に少ない。
個人的には、楽器を破壊してくれても構わなかったのだけれど。それが、使い勝手を試しているうちにそうなった事故とかであれば。壊れたらまた作ればいいし。それくらいに参加してくれたら、こっちとしても本望だったんだけれどね。
こちら側の作品提示の仕方も荒っぽかったから、その問題は大きいのは分かっているけれど。でも、もともと日本人は作品に参加する人が少ない。作品を壊したらどうするんだって思って、子供が作品に触るのを止めていたお母さんもいた。その作品(他の参加者のもの)も実は触って欲しい系の作品だったんだけど(掲示あり)。


リアル世界ではそういう人たち、あるものを鑑賞するだけの人々が多く、そこに参加しようとする積極的な人たちは本当に少ないのだ。
ブログを書いたり、新しいガジェットを試したりする積極的な人たちは、割合にしたら本当に少ないのだ。


ぜんぜんまとまっていないけれど、ただダイアリーを書いているだけの人に、いきなり星を提示したので、びっくりしただけで、こういうことを思っただけで。


ネットに参加しない権利ももちろんあるけれど、それで貧富(お金というよりも、知識やそのたもろもろ、あれば得するし、なければ損をするような事柄すべて)差が付く現状をずっと憂えている。


大学の端っこでITアシスタントをずっとしているが、入試偏差値とパソコンが使えるかどうかは比例しない。これは事実だ。
使えない人は、必然的にサイレントマジョリティになってしまう可能性がある。
いいのかなあ、それで。