「ただしいもの」ってなんなんだろうね。

任天堂ゲーム「MOTHER 2」より
『ただしいものとただしくないものとがいて
それがたたかったとして…
ただしいものがまけるときみはおもうかね』
(c)糸井重里


ただしいものとただしくないものがいる、という前提で話をすれば、この話は成立するんだ。
でも、世の中、そうは簡単じゃない。
たいていは、みんなが、自分は正しいと思っているみたいだ。
他の人から見たら、それは間違っている、と、思われる場合があるというのは、あまり想定している人が多くはなさそうな気がする。気のせいかもしれないけれど。


キョウイク系の人間(別に、教職にある人間とは限らない、人に何かを教える機会が多いすべての人たち)が、ある意味で陥りかねないジンセイに於ける宿命的なワナっていう物があるかもしれない、って、このところ恐れていることがある。


そのワナっていうのは、自分が正しいと確信すること。


いや、それ自体は良いんだよ。1+1=2を教える算数の先生が、1+1=3かもしれない……って思い始めたら、児童は戸惑ってしまって授業じゃなくなっちゃうし。


ただ、その真実が絶対無二かというと、そうでもなかったりするんだね。コドモのナゾナゾの世界では、『1+1=田んぼの田』*1ダッタリするから。ナゾナゾ界ではそれが正しい。でも、その正しさは『1+1=2』を否定している物ではないところがミソなんだな。


ひとつの命題についての答えは、ひとつではない。


まったく別の世界から見たときの、もうひとつの正しさがある可能性は、常に指摘できる。


だから、自分は正しいけれど、自分だけが正しいんじゃない、っていう視野は、いつも持っておきたいよね。


そのひとに合わない正しさだった場合、ぶつかり合うしか無くなってしまうから。
友情の中に、教育を持ち込まれた場合、特にそうなりがちなんだ。互いの甘えがそのような事象を作り出す。
独立したルールのある存在同士の話し合いであること……の視野、は、距離を置かないと生まれないだろうな。
自分の正義のおしつけになってしまうと、肝心の大切な相手をつぶしてしまいかねない。これは自分がいわれてみて初めて気が付いたんだけれど、今まで,他の大切な人に、それをこの自分がやっていたからね。


そして、もっと怖いのは、大切な人を自分がとらえたイメージでしか見なくなること。
そして、そのヒトに対して、自分がとらえたイメージに対して送っている(ある種の妄想)にしかすぎないことを、現実のその人に対してぶつけてしまっても、実効性は少ないということ。
大切な人であるが故に、自分の中のイメージでしか見ていないことに、自分で気が付けない。
これじゃ、話し合いそのものが成立しない。
冷静に物を見ているつもりで、実はものすごく熱狂的な(想像の世界の中の言葉でしか話せない状態で)見方しかしていないように、相手からは見えているというような。


教えるという行為には、ある種の自己満足や、熱狂がつきまといやすいんだ。それはいつも心しておきたいと、今の私は思う。
相手が持っている力を引き出すのが、自分が思う教育スタイルなんだ。だからこそ、あらゆる事態を想定して勉強する。
押しつけであってはいけないんだと思う。
でも、人間、相性ってあるよね。合わない相手では、引き出すことができない。
自分もちっぽけな一市民でしかないけれど、一市民であることだけは、いつも心しておきたいんだ。
万能じゃないんだ。でも、ベストは尽くしている。それが、他人から見えるかどうかは、また別の問題だと思う。


私が教えることは好きでありながら、教職系を選べないたったひとつの理由。
成績評価がいやだから。これはあまりヒトに言っていないことだけれどね。
ある尺度に合わない人間に狭い視野から見たレッテルを貼るような乱暴な行為は、自分には難しい。自分で自分を評価するならいいけれど。
そのヒトの人生の中で、90分×15回とかしか、しかも教卓越しとかでしか見ていないのに、数値をつけることは、乱暴としか思えないんだ。
だからこそ、トレーナーというか、サポーターが天職。どこまでもおせっかいなのが玉にきずかな?


あくなき向上心だけが教育の正義じゃないと思うな。
もっと大切なのは、ありのままの自分を認め、その中で身の丈にあったできることを続けていくこと。
目標を持つこと自体はすばらしいけれど、目標を達せない自分を責めていても意味がないし、そんな生き方をしていたら、うつ病になるかもしれないんだ。
ましてや、ある意味の正しさで押し付けられた目標を他人が達せないからって、やってくれないのはなぜって嘆いても通らない。
自分がやりたいからやったのであって、そのヒトにそれが必要だったかどうかは、そのヒト自身が判断することでしかないんだ。
だけど、わたしは、学んでいない訳では、けっしてないよ? キミからはそうは見えなかっただけで。


すばらしい教育を行っている、かけがえのない友人Aさんへ、ネットを通じてこのまとまらない祈りを捧げます。
キミの夢の中にでも、いつか優しく届いてくれますように。
今は、さようなら。

*1:きっと、子どもらしいへ理屈的な観点を失っていない、元子どものヒトなら、なんで「田」になるかすぐ分かると思います。意味や書き順じゃなくて、図形として「田」を捉えるのがポイント。この発想はなかったよ>小学生当時の自分。