ヱヴァ・破る@日常の日

「映画の日」である昨日書いたように、それから、公開初日の2007年9月8日に第1作を観たように、ヱヴァを序と破と観てきたわけだ。
14歳の少年少女でなければ、あの巨大な人造人間を乗りこなすことはできないという設定が、なんとも絶妙だと思った。自分自身の14歳のころを思い出すと、世界が見えてきて、でも、自分のことだけで手一杯で、友達が何よりも大切で、曲がったことが嫌いだった……あと、大人を信用していなかった……心も体も不安定な時期だったと思う。大人から見ればちょっとしたことで傷ついたり絶望したりし、またちょっとしたことでものすごく成長し、ちょっとしたことでプライドを持てるようになる。そんな年頃。
それからもうひとつ大切なことは、中学2年生の頃に、その人の大人としての個性、性格、芯、大切にしたいこと……となるものがある程度固まってくることだ。自分の経験では、10歳頃から他人と自分ということが主体的・自覚的に分かり始めて、14歳の頃に組織運営とか社会とか世界とか、そういうことが分かってきたと思う。10歳から14歳ごろは、非日常の世界に確かにいるモノを友達と共有できうる年齢でもあるかもしれない。自分も「それ」が本当にいたのかどうかは今となっては分からないけれど、実際その年頃(12歳ごろ)に「人間ではないモノ」の存在を信じて、それを相手に友達と共同して戦い、自分の気づきがきっかけでみんなを守ることができたことがあった。よく分からないことを書いているかもしれないが、トイレの花子さんとかそのたぐい、学校の怪談とかを事実だと思って友達と大騒ぎをする、そういうこと、小学生から中学生に上がる年頃に、経験したことがある人もいると思う。端的に言ってそういうようなことがあったのだ。


見えないものすら、事実だと思える、世界の真実だと思う歳。今の自分から見れば非日常世界なのだけれど、当時はそれが日常だった。
「見えないもの」は、あの頃の自分にとっては当たり前のように見えているモノだった。だから、物理的な形がなくても関係がなく、事実であり真実だった。質量や重量がある・ないなんて無関係に、大切にしていたことだった。


エヴァの作品テーマからは大幅に外れてしまうかもしれないけれど、特別な14歳たちを仮想体験することで、あのころに大切にしていたことを思い出せたように思う。


今の自分は大人としてやらなくてはいけないことがたくさんあるのだけれど。
あの頃の自分も、確かに今の自分の中にいる。
それを思い出せた。


「日常」と書いて「当たり前の日々」とルビを振ることが当然だった日々の続きとして「今日」を過ごすことは、もうやめよう。
「日常」と書いても、「特別の日」とルビを振れるように生きよう。
あの頃は毎日が手一杯だった。明日を生きることさえ、難しいように思えた。
その日々と同じだけの重さをもって、今を生きよう。
1日が24時間であることだけは、変わらずにそのままなのだから。