「真・女神転生 ストレンジ・ジャーニー」に想うことども

真・女神転生 STRANGE JOURNEY(ストレンジ・ジャーニー)

真・女神転生 STRANGE JOURNEY(ストレンジ・ジャーニー)

このところ「ストレンジ・ジャーニー」冒険日誌みたいな感じで日記を付けていたわけなんですが、ひとりのゲームプレイヤーとしてこの作品に感じたことをつらつらと書いてみます。冒険のほうは……例によって迷子になっていますしね(苦笑)。エンディング直前だからこそ思うこととか、あると思うので。
このゲームシリーズの第1作(ファミコン版)から変わっていないこと。それは、「悪魔交渉」→「仲魔スカウト」でパーティの戦力を整えるというスタイルです。これは当時、非常に斬新でした。それまでのRPGではキャラクターを作って加えたり、物語で出会った人が運命的な人物で……といった形が多かったのですが。
スカウトするとなると、必然的に相手の立場に立って物を考えて上げなければなりません。初作ではせいぜいモノ(お金やアイテムなど)のやりとり、あるいは会話で相手をその気にさせたり、といったことでしたが、「ストレンジ・ジャーニー」ではそれ以外にもこちらの態度に共感したからとか、悪魔なりの使命感からとか、あとは人生(悪魔生?)に刺激を求めてなど、さまざまな理由で仲魔になってくれます。


そして、今作で特徴的なのは人間の文明についてのやり取りが非常に多いこと。「世界をここまで壊してしまって、人間はこれからどうするつもりだ?」という意味の質問で相手の機嫌を損ねないように回答しないと怒ってしまって戦闘に……、ということが頻繁にあります。逆に、相手の意に沿った回答で「この人間は物の道理がわかっている」と思われれば、仲魔になってくれたり機嫌よくアイテムを分けてくれたりもします。この問答が結構シビアで「これからは反省して何とかするから」と答えても信用してもらえなかったりします。


こういうスタンスで地球と文明のあり方を考えさせてくれることって、現実ではなかなかないと思うのです。地球にも意思があり、それがある種の知的生命体として形を取ったのが今作の悪魔ということのようなので、この対話はすなわち人間と地球の対話にほかなりません。
実人生でこの経験をどう生かすかはプレイヤー各自にゆだねられることですが、少なくともプレイしている間は「自然破壊を反省している人間」を「演じ」なければ仲魔を作れず、ゲームがクリアできないのですね(RPGとは「役割演技ゲーム」ですから)。
そして、こういった自然側の言い分を聞いてみることで、人間のエゴに気がつかされることも非常に多く感じました。
交渉の基本は相手の立場に立ちつつこちらの主張を通すこと。地球の立場に立ちつつ文明の主張を通すことが、現実の人間に求められていることなのでしょうねえ……。


すべてをぶち壊しにして新しく世界を作り直すスタンスで解決するのか(これがカオス=混沌側のスタイル)、それとも、神の元の意思統一で世界を治癒するのか(こちらはロウ=秩序側のスタイル)、そのどちらでもありどちらでもないスタイルを貫くのか(ニュートラル)。どうやらこのゲームには3パターンの結末があるようです。


私はとりあえずはニュートラルスタイルのプレイをしているわけですが、秩序立ち過ぎると非人間的になってしまうし、かといって混沌に任せれば弱肉強食的=動物的になりすぎるから、どちらも選べなかったゆえの帰結でした。


あることだけを正しいとして秩序を立てれば、第2次大戦中のドイツや日本のような……ほかの意見を認めないがゆえに人が殺されてしまなりかねない。多様性は認められなければならない。かといって、だれもまとめようとせず、ただ力だけが正義とするのも、弱いものが生きてゆけない社会になってしまう。それもまた間違っている。


実際、地球も人類も臨界点というか、追い詰められるべきところまで追い詰められていると思います。
DSi本体を置いたあと……現実でもニュートラルに解決していきたいものです。



それにしても、よくもまあこれほど「腰骨の太い」ゲームをDSでリリースできたものです。


DSではライトなゲームが花盛りだったり、ゲームではないツール的なソフトウェアが売れていたりしているのに。Amazon.co.jp自身が販売しているページでは時々品切れを起こしています。ドラクエやFF的なトップランカーではないものの、しぶとく売れ続けているようです。


実際、現在プレイ時間130時間近いですよ、私。100時間を越えてまだクリアできていないのは、たぶんかなりのんびり屋だとは思うのですが……。コストパフォーマンスの高さは特筆ものですね(^^;)。
Motherシリーズとはまた違った意味で、テキストが生きているRPGだなあと。文字の小ささもDSi LLである程度解決できますしね。


現代って、確かなものがあまりにも何もない気がするんです。このゲームはそういう時代の空気にマッチしているのかもしれませんね。
格差社会にしろ就職にしろ、自己責任とされることがあまりにも多い。そして、自分ってそんなに確かなものなのかと。なにもかも全部が全部、自分が悪いというのは極論過ぎるのではないか。
カトリックの大学で学んだから多少はキリスト教的な価値観が理解できるのですが、このゲームで言うところの「ロウ」的なポジションって、自分では解決できない責任を神様に委ねて自分の意思を放棄するところがあるんです。


昔は疫病の流行は風の神様が怒っているからだとか、洪水が起これば水の神様が怒っているんだとかいって、だからこそ謙虚に生きることが美徳とされた。でも今はインフルエンザ騒動にあるように、人間の手である程度は疫病などの「災い」を予防できるようになって、逆に予防処置を取らない人はうっかりモノというか、自己責任能力がないとか危機管理意識がないとかされるようになってしまった。


不確かなものは不確かな存在に投げやることによって、自分自身を守ることができたかつての価値観と現代のそれは大きく違ってしまっています。
見えるものが見えすぎてしまって、あらゆることに予防線を張ることが求められている。子供にGPSケータイを持たせていないと安心できない親というような現象が起きている。


すべてが見えてしまったら、逆に何を頼ればいいのかわからなくなっている混迷の時代。それをデフォルメして考えることができるから女神転生シリーズは面白いの、かな、と。
たぶん、メジャーバリバリなヒットというようなことはなくても、しぶとく長く売れるゲームに仕上がっていると思いますね。