3月11日のこと

あえて一日遅れで書いてみる。
私は東京23区内の某大学、PC室のサポートスタッフだ。
あの地震のときは急に揺れが強くなって驚き、ともかく机に隠れて待った。普段から我々のまとめ役をしていた同僚が学生さんの誘導などでリーダーシップを発揮してくださり、非常に頼もしかった。


私は最後の退室確認や上司との連絡に廻り、スタッフ間では自然と役割分担が出来ていたけれど。


なかなか大学の方針が固まらず、ともかく外で待っていても仕方がないので、一番堅牢な棟に学生さんを集めて待つことになって。その間、大教室のプレゼン設備でNHKを見ることが出来て、情報が入って助かった。そして、津波に驚き、余震で天井吊りのモニタがグラグラするのに驚きながらも、内線電話の近くに陣取って連絡を待つ。最終的には非常放送で教室移動などの指示があった。帰れる距離の人は帰り。私は徒歩帰宅も不可能ではなかったけれど、何時間かかかるだろうし、暗くなってきたし。道路の危険性も分からず。安全を期して大学に残ることにした。


地元でマンションの高層階にお住まいだという方など、一般市民の方もいらっしゃった。また、近くの道路が通行止めになって、車から降りて暖を求める方なども。子供さんを2人連れたおかあさんを所定の教室まで誘導したのを覚えている。びっくりしていたあの子たちは元気だろうか。


いつもの事務室の会議室をスタッフの仮眠場所として宿泊(事実上眠れず徹夜)した。床面に新聞だけではなく段ボールをも敷けば寒くなく眠れたかもしれない、とは、後で思ったことで。基本的に寒かった。
一般の方の教室を時間交替で見回りつつも、やはり不安だった。つくづく、普段の人間関係が良好な職場で良かったと思ったものだ。こういうときの頼れる感、完全安心まではいかなくても一人じゃない感があったから。


電車が復活したというニュースを得て無事に帰宅し、仕事はそのまま数日休みになり、学生さんの登校が当面禁止になり。
改めて出勤した日に見たのは、壁のペンキがはがれたり、照明が外れたりしたことで。テレビやWebでの東北地方や震源地付近の友人からのメールでの被害にも驚いたが、職場の被害もそこそこあり、これだけ離れていてもこれだけの影響力があったことに震撼させられた。
パソコンをすべて起動し、起動不良をチェックしてみると、液晶モニタの表示色が変なマシンが2台ほど見つかった。しばらくしたら復旧したが、地震波で何らかの衝撃を受けたのかもしれない。もちろん、システム管理部署には報告。


教室の修理手配、安全点検、再度地震があったときの対策など、いろいろなことが話し合われた。いつになくミーティングが多かった日々。毎日どきどきしていた。
そういえば、311の震災の数日前、職場の防災訓練があった。消火器や校内消火設備の使い方とAEDだった。あのとき、AEDを覚えて良かった、と、今も思う。



私の出勤用のザックには、折り畳み式のヘルメット、水、栄養剤、三角巾などが入っている。たぶん、これを無しに出来る日はずっと先……もしかしたらないかもしれない。実のところ、ちょっと重いのだけれど...必要な重さだ、と、割り切っている。