高齢化社会では葬儀がふえる

先日、親戚の方が亡くなられて、葬儀に出席させていただいた。
残念ではあったが、お顔が安らかというか、ご飯にでも誘ったら起き上がってくださるんじゃ? という感じで。実際に立ち会われた方からも、おそらくお苦しみはなかったと思われるらしい。本人じゃないから分からないが。
ご冥福をあらためてお祈り申しあげたい。

そして、ふと思ったのが。
この国は高齢化社会と言われて久しいが、つまりは、若年になればなるほど、ひとりあたりが一生にお見送りする平均人数が増えていくのでは? という今さらな疑問。
上の世代の方が人数が多くて、若者が少なくて、上の世代から亡くなられていくなら、当然の帰結だ。
実際。先日の葬儀では、まだ小学校低学年なのに、人生でもう4度も葬儀に出席したという子どもがいた。自分があの年齢くらいの頃は、冠婚葬祭なんてほぼ縁が無かったような気がする。
お世話になった方々をお見送りするのは、悲しいけれど、せめてのお礼としてつとめさせていただくとしても。
自分などをいずれお見送りしてもらうのは、何か申し訳ない気がしてしまう……。

閑話休題*1
最近、墓じまいというのも聞く。
これもまた寂しい話だが、先祖代々とはいえ田舎のお墓を都会で暮らしながら守っていくのは難しいとか、親戚と連絡が取りにくいとか、ご事情はそれぞれだろう。
電車に乗れば、納骨堂の広告をよく見かける。お一人様でも供養してもらえるとか、宗教不問といった、時代に合わせたものらしい。

何にしても、先祖の方が残された有形無形の遺産を相続するのには、後継者にもそれなりのバックボーンやリソース、マンパワーなどが必要となるだろう。それらを従来通りに用意できない、そんな余裕なんかないのが若年層の現実なのだ。高齢者が若者だった頃は、そういったものを当たり前に入手できたり、もともとあったのかもしれないが、今は無いのだ。そこを想像して欲しいのだが、相続税にしても法にしても、あるいは文化的な継承などにしても、追いついていないのではないか?
お年寄りを敬うのはもちろん正しいのだが、お年寄りの方でも若者に優しくして欲しいと思うことも多々ある。やっていることは若い衆を杖で理不尽にひっぱたいているのと同じ、そんな高齢者が時々いる(物理的暴力ではなく、もちろん比喩なのだが)。そんなときに若者から仮に殴り返したら、世間では卑怯者扱いされてしまう。もともと悪いのはどちらだ、ということは問われずに。高齢者というだけで被害者とか、守られるべきものだと思われて。

高齢者が荒らした世界を、後片付けさせられるのは若者ばかり。若者が高齢者になったときに人生を振り返ったら、上の世代の片づけばかりで自分を生きるヒマなんかなかったと気がつき絶望。……あまりにも高齢化社会が進むと、そんな世の中になりかねない。人生はもっと楽しいものではないのだろうか。

*1:自分のことを書くのは本筋から離れてしまう。