東京五輪閉幕

なんだか、人間の尊さと醜さを同時に見させられた3週間だった。
メダルや新記録などの直接的具体的な成果の話ではなく。
選手やスタッフの皆様には美談や面白くて微笑ましい話が多い一方で、上の人たちには残念なことが多すぎた。
机の上の論理と政治だけでものを動かしている側の人たちに、あまりにもいびつで残念なことが多すぎた。
開会式からしてちぐはぐだったこと。個別には見るべきものもあったけれど。これは結局閉会式も。
確かに選手は見られる立場ではあるけれど、負けた選手を必要以上に映したりして、あまりにもリスペクトが欠けたことも多かった(特にサッカー男子)。それに考えてみたら、金メダルを得たひとり以外は全員敗者ともいえるわけで。スポーツの映像ソースは大半が敗者に関するものになる。敗者の報道の仕方をもっと考えた方がいいかと思う。
あと、これは前から思っていたけど、アナウンサーってどうして選手のことを敬称略するんだろう。まあ、いちいち「〇〇選手」と付けるのは言いにくいんだろうけど。問題はそのせいで、テレビの向こうの視聴者側が偉くなったと勘違いすること。クーラーの効いた部屋でビールと枝豆をお供に野球の中継を見ながら、野手がエラーすると「何やってんだこのポンコツ!」みたいに一人で絶叫するおじさん、時々いるけど。ああ言うのを見ると、あんたはそんなに偉いのか、プロの硬球の高速ゴロを処理するのがどれだけ大変か想像もしないのか、何もしてないのに文句言うな、とつい思ってしまう。まあ、それはともかく、こういうことの原因のひとつ、選手をリスペクトしないひとが時々わいて出る理由のひとつが、報道で選手に敬称略していることかと思っている。そのせいで視聴者は、選手のことを人じゃなくてコマだと無意識に勘違いしてしまうのではないか?
それが特に女性選手ならなおさらで。例の名古屋の河村市長の金メダルかみつき問題(ソフトボールのある選手が金メダルを持って表敬訪問したら、悪ノリして金メダルにしっかりと噛みつき、セクハラ発言も多くした問題)は、ご本人の資質もさることながら、画面の向こうの人は自分のコマだと自分が勘違いしていることに気がついてないこと、一種の想像力のなさが原因だという気がする。
あれはあまりにも滑稽だった。常識ある人であれば、あんなことはしないしできないであろう。そんなことをする人がいると字面では信じられなかったので、写真報道を確認したら水でもぶっかけてやりたくなったが(それくらいされても文句は言えない。ヒトをヒトとしてリスペクトしない者になんの配慮が必要か?)。政治家なら、自らの愚行で市民から投票されないというしっぺ返しが怖くないのだろうか。
このご時世、観戦に行かないこと。これが徹底されなかったことも残念だ。特に、札幌でのマラソン。選手はみんな分かっているから、無観客は覚悟していたはず。なのに関東や関西からすら観戦者がいたらしい。自分が移動することでどれだけの迷惑になるのか考えもしていないんだろう。そう、五輪を開催することで、コロナへの警戒心が薄れたところは確実にあると思う。
自分には症状がないから感染していない。心配だから街や薬局の検査キットでPCR検査(または抗体検査)をしてきたから大丈夫。もうワクチン打ったから大丈夫。マスクしていれば大丈夫。
自分の身体をミクロ単位で診たのだろうか。気流の流れが見えるとでも言うのだろうか。
みんな想像力が足りない。
検査をしたところで、検査時の陰性が判明するだけ。その1秒後のことは必ずしも証明できない。また、検査結果にはブレがある。偽陰性とか。
ワクチンで抗体を得たとしても、ウイルスのキャリア(運び手)にはなり得る。自分が無症状感染者かもしれないとうっすらでもよいから想像しておくことが出来ているかどうか。これが新型コロナ対策の基本的前提になるはずだ。だったらマラソンを見に行くなどの選択肢はそもそもないはずだ。地元でもないのに。もし今回の五輪の観戦に行ってきたような人が周りにいたとしたら、浅慮な人だと見なして良いと思った。自分でもそう思うので、ヒトを判断するような立場の人からどう見られるか、もしマラソンの中継映像に自分が映っていて、取引先や上司にバレたらどうなるか。この代償は大きかろう。
結局、こういうヒトは自分の頭でものを考えていないのではないかと。みんないるから大丈夫、みたいな。ウイルス対策は、みんながいるところに行ってはならない(密になる)のは自明の理なのだが。
ともあれ、厄介な状況での五輪だった。そして、選手のプレーは素晴らしいものが多くあったものの、それ以外の余計な場面や余計なところで、あまりにも残念なことが多すぎた。五輪は選手が主役であるはずだ。例えばサッカーのタイトすぎる日程や、急な開始時刻変更、ナイター(それも、日本時間の22時等)に行われた決勝戦の多さ、気温と湿度がスポーツに適さないタイミングでの開催だったことなど、上の人の側での配慮が足りない面は多々あった。
東京五輪を反面教師にして、パリ五輪はもっと選手に寄り添った大会になることを願いたい。