『ビリー・ミリガンと23の棺』を読了

この連休は読書で過ごしている。
昨日、ビデオを借りに行った図書館でたまたま目についたのは『ビリー・ミリガンと23の棺』だった。

24人のビリー・ミリガン〈上〉 (ダニエル・キイス文庫)

24人のビリー・ミリガン〈上〉 (ダニエル・キイス文庫)

24人のビリー・ミリガン〈下〉 (ダニエル・キイス文庫)

24人のビリー・ミリガン〈下〉 (ダニエル・キイス文庫)

ビリー・ミリガンと23の棺〈上〉 (ダニエル・キイス文庫)

ビリー・ミリガンと23の棺〈上〉 (ダニエル・キイス文庫)

ビリー・ミリガンと23の棺〈下〉 (ダニエル・キイス文庫)

ビリー・ミリガンと23の棺〈下〉 (ダニエル・キイス文庫)

解離性同一性障害多重人格障害)という精神疾患が、日本のマスコミを賑わしたのはかなり前のことだったが、自分の心のどこかに「あのビリーはその後どうしたのだろう?」という疑問はあったらしい。だから目についたのだろう。ノンフィクションであることがどこか信じられないような話ではあったが、実際に起こったことなのだ。


人は誰からも人格を侵害されるようなことはあってはならない。そして、人は人を信じ、大切にし合い、愛することができる。
でも、まだまだ無力な幼少時代に、虐待行為によって自分自身の価値を信じられるべきオトナから全否定されるようなことがあったら?
人間としてのベースライン、大前提的な自尊心がキズだらけになってしまったから、心を守るために彼は人格分裂せざるを得なかった。
そして、愛を知らない彼が愛を得るために起こしてしまった犯罪。
その犯罪で結局彼は無罪になった……。精神疾患ゆえに。そこまでが有名な「24人のビリー・ミリガン」で語られた彼の歴史である。


本書では彼が無罪判決を得た後を描いている。
彼を恐れる社会からのバッシング、そして閉鎖病棟への転院に次ぐ転院、逃走と絶望からの断食、その中で奇跡的に起こった人格統合……。
彼のような精神疾患の者を受け入れることは、社会がまだ準備できていなかったし、精神疾患故に犯してしまった大きな犯罪についての恐れもある。だから社会の側としては閉鎖病棟に閉じ込めておきたかった。未知の危険があるが故に。それが社会のためだとみんなが信じた。それに、ビリーはある意味、悪のシンボルのようにマスコミに扱われてしまっていた。彼をバッシングすれば、選挙で有利となるような奇妙なムードが、この地域にあったようなのだ。


彼は自分の大罪を悔い、そして犯罪を二度と犯さないと誓い、現にそれを厳守していたのだが。
彼を恐れる人々はそれを信じていなかったのだ。だから、治療よりも監禁を望んだ。
信じない社会的な考え方も分かるが、一度犯罪を犯した者が更生したとき、それを信じて一般市民として受け入れるのも、また社会の役割だと思う。
そうでなければまた負の連鎖で新たな犯罪が起こるだけだし、希望も生まれない。さらに経済的な面を言えば、新しい社会人が生まれることによって、刑務所や閉鎖病棟での公共的(税金的)負担が減り、税収が生まれることにもなる。


更生した者を信じ、適切な対処の元に社会人として復帰できるようにすることは、結局、自分自身を含めた社会のためになるのだと思った。


本書の末尾で、虐待は連鎖してしまうという可能性について、ビリー自身が気が付き、もう連鎖させないと誓う箇所がある。
幼少期に虐待されてしまった場所を再訪問して、かれは率直に、著者にそう語っていたようだ。
虐待する者が虐待した原因を辿ると、彼や彼女自身がかつて虐待されていた、ということは往々にしてあるようだ。かつての自分が不当に奪われた物を取り戻したいのだろうか? しかし、虐待した所で取り戻せるわけではない。時間は巻き戻らない。新しい怨恨が生まれるだけだ。
だから、負の連鎖は誰かが勇気と責任を持って、断ち切らなくてはならないのだ。


これに関連して思い出したのが、日本に於ける中学校、高等学校、大学などの部活動で、往々にして先輩から後輩に対して性的いじめを含めた不当なしごきがおこなわれることがある、という状況だった。特に体育会関係や応援団といった、上意下達が伝統になっているような組織で、そのようなことがおこなわれているそうだ。インターネットの学校関連や教育関連のBBSでそうした書き込みを目にすることがあるし、ときどきニュースにもなっている。
上級生にされたから、という理由でかつての下級生だった者が上級生になったときに、そのいじめを新しい下級生におこない、連鎖してしまう。時には死亡者、自殺者、または重大な負傷者が出ることもあるようだし、心に負う傷のことまで考えたら、被害者は膨大な数になるのではないだろうか。
なぜ、こんな伝統を断ち切ることができないのか。おそらく、不当なことをしているから不当なことでやりかえす、ということ以外に、大局的な対処方法を学ぶ機会が日本の教育の場にないからだと思う。この国はオトナ社会にも往々にして不当が横行しているのだ。オトナが手本を示してはいない。その源流は子供時代に受けた教育のあり方そのものにあるのではないか?


ビリーのストーリーから大きく脇にそれてしまったが。
彼は怪物でも宇宙人でもなかった。ただ、傷つけられた1人のアメリカ市民だった。
そして、人間が人間を不当に傷つけたとき、どのようなことが起こってしまうのか。
ゆるし合えることがどんなに大切なことなのか。
またひとつ、心の片隅に留めておきたいことを学んだと思う。