無の思考実験

自分は宇宙人に捕らえられた。
さあ君は自由だ、好きなことをやりたまえ。
……といって、何も持たずに、無の、無限空間に放り出されたら?


生命維持装置的なシステムは働いていて、空気成分はある。重力は地球上同様、大気の気温は常温。生命体として存続するのに不都合はない状態。エネルギー、水、栄養は睡眠中にいつの間にか補給され不要分は排泄されていて。空間や身体の清潔も保たれている。近視や体脂肪率等を含めて、病気は完全に治療された。そして、もっとも健康な状態だった肉体年齢(18歳くらいの頃)に体が戻された。


地球上にあるものに限るが、ほしいものがあれば所望*1でき、宇宙人は直ちに届けてくれる。
代償はこの実験に協力し続けるということのみ。そういう契約。


まず、自分は、地球環境同様の日の出〜日の入りリズムでの点灯・消灯を求めるだろう。
そして、睡眠環境(日本人らしい畳+ふかふかの布団セット、使い慣れた低反発枕)も。プライバシーが保たれる家屋も*2


日が当たり、緑にあふれた広大な公園、滝や湿原など変化に富んだ自然環境が居住区の近くにほしいといえば、翌日にはできていた。
動きやすく清楚で、派手さはないがしゃれている服装も、イメージ通り、否、それ以上の品質で用意してくれた。


乗りやすい自転車がほしい。そして適度なコースがほしい。習熟度に合わせて変化する魔法のコースが。
それも手に入った。同様にプールや海も。


Macintoshと必要なソフトウェア、および知識的なリソース。
宇宙人が用意したのは特殊なMacで、Windows環境でないと動かないようなハードウェアも含めて、パソコンでできることすべてを完全にサポートしている。しかもBootCampは不要なのだ。


使い慣れた楽器、つまり、トロンボーンと練習グッズや楽譜も。ここでならいくらでも練習できる。
参考音源も。


見たかった映画も美術作品も、最高の環境で鑑賞できた。


宇宙遊泳をしてみたいといえば、宇宙服と大気圏外に船を用意してくれた。そして、彼らのサポートで特訓を受け、安全に地球をそとから眺める経験をできた。


しかし。なんでも許されたわけではなかった。
宇宙人に、家族や古い友人と音楽を楽しみたいと申請したら、彼らは"No."と言った。
インターネットアクセス権と吹奏楽団への参加申請も却下されてしまった。


すなわち、彼らは、私が……実験体が、個ではなく『社会的な存在』となろうとすることを阻もうとしているようなのだ。たった一人でいる分には、いくらでもなんでも叶えて届けてくれるし、何をしようとかまわないが、他の人間と連絡を取るようなことはいけないというのだ。
人間をたった一人にしたときに、何をするものなのかに興味がある、だから実験するのだと。それに旧友や家族など、私を知っている人には記憶の上書きを行い、Web上の活動ログも消去され、社会的な意味で存在を抹消したのだとも言った。



生命は維持できる。楽しい趣味に没頭することもできる。
人間がひとりで生きていけるなら、これ以上の環境はない。
しかし。


人に会いたい。
これをかなえてもらえない。
この環境からの脱走は不可能。
そして会いたい人に会ったところで、その人の中に私の存在はない。


そのうち、宇宙人は私にコンタクトを取らなくなった。
私の欲求の傾向を完全に分析し終えたからだ。必要性を感じる前に品物は届くようになった。思考の動きは脳波から分析され、もしも新しい欲求を覚えても、それはコンタクトなしにただちにかなえられていった。


私は完全に一人になることになった。それでも生命を維持しようとするだろうか?
自分という意識の存続に意味を見出そうとするだろうか?


おてんとさんから授かった命、無下にはしないと思っていても。その生命モラル感はどこまで持ち続けられるだろう。自分が生きた証のようなものを作ったりしても、それを宇宙人以外に……人間に伝えるすべはないのだ。


……。思考実験終了。
つくづく、自分は人間、すなわち、人と人の間にこそ存在する者のひとりなのだな、と思った。
一人では「存在」はできても、「生きる」ことはできないのかもしれない。
ただ、それでも、知識を学ぶの中での楽しみ、それに、体を鍛える楽しみ、そして、芸術をすることの楽しみは一人で楽しめるから、いろいろと「する」だろうけれど。それだけで、「生きて」いることになるのかどうか……。
結果としての成果物=「できあがり」を、だれかに見せたい、ほめられたり共有したり批判されたり、そういうコミュニケーションをしたい、という欲求は確実にあるだろうから。


人間として、自分は、他人に生かされているのだ。改めてそう思う。

*1:書いてから思ったけれど、所望システムが無かったらもっと絶望的なことになっていた気がする。無意識に考えていたけれど、それなりのモノがないと、生きていることにならないということでもあるのかも。ただ存在しているだけでは、やっぱり生きていることにならないことを再確認した。

*2:とはいえ、宇宙人には丸見えではあるけれど、形ばかりでも他人から見えない空間がないと落ち着かないだろう。