あの、『ヱヴァンゲリヲン』について思うこと

自分は要らない子供だ。
仮に『あること』ができなかったら、自分は不要な人間になってしまう。
他人に嫌われたくない。それくらいなら自分が死んだ方がいい。


そんな思いを抱えていた10代の頃と、今がつながっていることを思い知らされる作品だから、あまり語りたくないのだが。


先週までGyao!で無償配信していて、偶然それを目にしてしまったので、やはり書かなくちゃいけないんだろう。
配信版、つまりテレビで放送されていた時代の『エヴァ』について。そして、現在順次公開を重ねながらなおも制作中の『新ヱヴァ』について。


もともと、テレビ放送時代にはあまりアニメを見ていない時期だったので、『エヴァ』は見ていなかった。
私とアレが出会うのは、今から6年前のことになる。
インターネットで評判を偶然知り、そして当時退職して無気力に近い状態なのに時間だけはあるのもあって、結局シリーズ全作を見せられてしまった。多くの人がそうだったように、ダイナミックな作図、スリリングでかつ深いストーリー、解かれなかった多くの謎、ワケの分からない終劇。あの『ナディア』と同じ絵柄でありながら、同じ作風の音楽でありながら、全くちがう世界。
そして、フィルムブックを読んでみたりとかして、しばらくはハマった。


そして、いつか、忘れた。
…どうにも解決の出来ない作品だったから、だと、思う。
いろいろ調べてみたけれど、見解はそれぞれにあるみたいで、だれにも100%の解はなく、だいたいそんなもの、作者さんサイドにあるのかどうかすら怪しいものだ。あれば、たぶん、今の時代、どこかのメディアが取材したりして話しているだろうし、と。


そんな折り、エヴァの新作が公開される事を知る。
新作?
一応終わったものを、どうして。続きをやるのか。何なのか。
なんと、今の技術で再び描き直すのだという。スタートラインから。
しかし、ちがう作品にするのだと、言う。


「序」については、映画館には結局2回は行ったはず。あの最初の部分から、既視感があるのに新しい。
同じ作品を新しい技術で書き直しつつ、冗長さを無くし、展開が早く、そしてキャラクターに力強さがあった。DVD化されて、何度か借りた記憶もある。
妙に引きつけられるものがある。カタルシスもある。謎もある。


「破」も、3回は映画館で見ているはずだ。DVDになってからも見た。
マリの強烈でアニメチックでコテコテのキャラクターがあのシリアスストーリーの中でギリギリに浮かない。シンジが本当に強くなった。そして、忘れちゃいけないアスカの登場、彼女の自信過剰さは魅力だと思う(空虚な自信ではなく実力があるからこそだ)。ヒトとの関わりについて料理をするなど積極さも出てきて、展開が読めなかった。社会科見学など、学生らしい一幕も出て、物語の質感が増していた。そして、レイが人間らしくなってよかった。それなのに、まさか、アスカがああなってしまって、シンジが闘うことになって、それからシンジが父から逃げずにケンカ出来るようになって。レイを救うことにもなって。
最後の最後のカオルの働きには、心底驚いた。


でも、旧テレビ版での散々悩んだシンジもまた、シンジなのだ。同じ人物なのだ。*1
それに、あのカルトな作品が、今やメジャーになっていることに不思議さも覚えた。みんな、何かしら不安なのかもしれない。だから、こういう強烈な空想的な作品に引かれるのかもしれない。ヱヴァだけではなく、ハリー・ポッターといい、ロード・オブ・ザ・リングといい、このところのメガヒット作は現実路線をいささか外れていると思う。そういう世相なのだろう。


今、またGyao!で旧テレビ版を見ることになり、自分の根本的な悩みは変わっていないことに気がつかされてしまった。


エヴァにもしも乗れなかったら、自分は必要とされないだろう、ということにおびえるシンジの姿。


パソコンを教えていけるから生きていける。もし、これが世の中に役立つ特技ではなかったら、自分は不要なんだろうか。人生の岐路において、自分が不要ではないかという懐疑さは一番堪えるが、そういう悩みが超えられていないのだから向き合わざるを得ない。


今回のGyao!での配信分には含まれていない、旧映画版の最終話はテレビ版よりも痛烈だ。
何しろ、人類補完計画の帰結は、たった二人しか生き残らない世界だったのだ。
シンジとアスカ、たった二人だけ。
そしてシンジは思わずアスカの首に手をかける*2。アスカは悩み続けるシンジに、おびえなくて良いと言いたげにほほをなでてあげる。それでも「気持ち悪い」と吐き捨てることは、いかにもアスカらしいとは思うのだけれど。
多分、もう、シンジが他人が怖いからと自分に閉じこもることはないだろう。あの様子なら、アスカと一緒に生きていけるだろう。散々小馬鹿にされながらも、本当に嫌われているわけではないのだし、たぶん、きっと、一緒に。


仮に、自分がたった一人しかこの世界にいなかったとしたら、自分が不要ではないかなどとは言っておれないだろう。死ぬわけには行かないからだ。死んだら、人類が本当に終わってしまう。何より、自分が終わってしまう。
で、あるなら、他人がいるからって、自分が不要だと思う必要はないのではないだろうか。
そこに存在理由を求めること自体が間違っているのではないだろうか。
たとえ世界中から嫌われてしまっても、自分だけは護らなければならないだろうし(でなければ命を与えてくれた神様と両親に申し訳ない)、世界はそこまで冷たくはないのを今の私は知っている。


社会に出て良かったと思えることの一つが、ヒトに役立つことが出来る喜びを知ったことだ。
もちろん、特技を活かして喜んでもらえるのが一番だけれど、特技なんかじゃなくても、ちょっとした気遣いが喜ばれることがたくさんあるのだと知った。
それは、エヴァに閉じこもっていたら分からなかった世界だ。


今はあの天才監督と最強のスタッフ陣が、最終話まで導いてくれるのをひたすら待っている。
一つの伝説的エンターテインメントの完結を、ただ、待ち続けている。
人生の楽しみがまた増えた、そういう余裕で待つことが出来る。
それくらいには強くなれたことを、小さなことながらも矜恃としたい。

*1:旧テレビ版と新劇場版が、どういうストーリー構造でつながっているのか今一つ掴みきれないが、生まれ変わりとかそういうことなんだろうか(カオルがシンジに「また会える」的なことを言っているので、まったくつながりがないわけではないだろう)。

*2:が、殺すことまでは出来ない。出来るわけがない。他人が怖いけれども一緒に生きていける世界を選んだ、ということは、他人への恐怖を乗り越えたわけではない。でも、だからといって、カオルの事件の後にはあれだけ悩んだのだ。もう他人が怖いからとそういう行動は彼に本気では出来るわけがないのだ