IT修得の差、というもの。

今日はとある打ち合わせ……、で、まあ、パソコンを使ってたわけですが。いつの間にかフリーソフトの導入方法のレクチャーでIT講習会になっていたのはなぜでしょう(人徳ってこと?)。
まあ、それはそれとして。
やっていて強く感じたのは、画面に表示されている文言の意味があっさり分かる人と、読んでも分からない人と、そもそも読まない人で、ITの修得力って違うんだなあと……改めて感じました。
これは、読む努力を強いるっていう現在のパソコンの造りの限界なんだと思います。表示しているからいいだろ、っていいますか。
ある程度読めるヒトは、スルーしていい部分と、絶対にしっかり読んでおかなくちゃ行けない部分が分かって来ますね。だから色んなソフトをドンドン修得できるようになるのでしょう。
それに、ユーザーインターフェイス*1の使い勝手になじめるかどうか。それから使った時に何をしているか、システムから把握しているか何となくさわっているだけなのかどうか、そういった意識の差とか。
この差を自ずから生んでしまうのがパソコンの特性かつ欠点。


パソコンは単なる道具で、例えば文章を書きたい(小説とか論文とか)からWordや一太郎を覚えるとか。絵を描きたいからIllustratorを覚えるとか。写真で遊びたいからPhotoshopを使えるようになるとか。作曲したいからGarageBandを覚えるとか。


そういうモノだと思うのですが、そういったことをするときに、パソコンそのもの(OS)になじめないヒトは、パソコン故の便利さを享受できない。
OSは選択の余地が少ないので(代表的なところでMac&Windows)、2択を強要される現実がそもそも不自然です。
もっといろいろなOSがあっていいし(初心者の手の届く場所に!)、あるべきだと思います。
企業の理屈で急に変わることが多くて困る。自分にとってWindows XPMac OS 9が最適だったと思っていても、VistaやXに乗り換えなくちゃ「時代」に着いていけないっていうのは何かが間違っている。


大学のとき、もう20年近く同じパソコンを使っている教授がおられました。彼女にとっては、コツコツ作り続けたそのオリジナルの文献データベースは、その20年前の物が最適だったわけです。これが一番いいのよ、とおっしゃられた。そう、無理にAccsessやFileMaker Proにしなくてもいいわけで。自分一人で使うのであれば、それこそキューハチがいいとか、X68000が最適だとか、色々あるはず。未だにワープロ(パソコンのワープロソフトではなく)を使い続けている作家さんもいらっしゃるでしょう。打鍵の感じや親指シフトの感じが手放せないとか。


付いていけるヒト、行けないヒトのこの「差」を埋める努力は、当のIT企業はあまりしません。彼らはドンドン進むのを自分たちの使命だと思い込んでいるので*2、ドンドン進み、その結果としての無理難題のスケジュールを消費者やユーザーに押し付けている。
ある意味、某M社は国家政府以上の権力を持っているわけですよ。ただの企業なのに。数年おきに数十万単位の出費を税金とは別の意味で支払わされているとも言えるわけで。これが自分の幸せにつながるのか、つまり、マシンを買い替えること、新しいOSの時流に乗ることが、自分自身を愉しくするかどうかは、買う前に本当に良く考える必要があります。周りが買うから、シゴトで必要だから、という前に、シゴトで本当に要るのかどうかとかをじっくりと考えなければ!


本当は必要な物って、そんな数十万もする物ではなく、もっとシンプルに考えた方がいいはず。そういうのって、IT全体の流れが分かった上で、じゃあ自分はどうしようって言うふうに、視野のレベルを高い位置にも低い位置にも動かせるような見識がないと難しいのかもしれないけれど。そういうのを分かっていて動けるヒトと、周りの渦に流されて何とかこなすヒトと。この差は同じシゴトをしていても絶対に大きい。


Windows VistaだのMac OS Xだのいいますが、結局のところはスチール製の机で作業するか木調の机で作業するか、それだけの差でしかない。もっと大事なのは、どんな道具を使いたいか、どんな素材を選ぶか、そういったところこそ問われるはず。その作業のためにスチールの机の方がいいとか、木の机の方がいいとか、そういうことになるはずなのに、そういうことを考えないでパソコンを選ぶのは危険だと思う。OS選びといっても、机は机なので、どんな机を使っても、その上で勉強したり絵を描いたりはできます。だったらより安い方がいいのか、より暖かみがあるほうがいいのか。それだけのことなんですが。


消費者がもっと賢くなっていかないと、企業に振り回されるだけ。それは問題なんだと思う。
これからは、自分のためにパソコンを選ぶ、という視点がもっと求められていく、と思います。某M社を皆が使っているからM社にする、というのは、もう辞めてじっくり考えた方がいいと思います。じっくり考えた上で、M社製品を選んだヒトと、流されるまま使ってるヒトでは、安全性に対する意識もリスク管理も違ってきます。結果、同じ予算をかけても得られる物の質が異なって来る。結局自分が得するか損するか、そういう所に跳ね返って来る。


消費者って、ITに限らず、自分で使う物は自分で作る、ということではないので。誰かが作った物を対価の上で使わせてもらうのが消費者の宿命なので、より選んでいかないと生産者に振り回される。ハンバーガーで肥満になった人は、ハンバーガーという物に対してじっくり考えていなかったわけで。それは消費者にも責任がありますがじっくり考えさせてもらえなかったという意味では企業にも責任の一端がある気がします。


現代社会ではある意味、もっとセルフィッシュにならないと生きていけないかも……。自分のために、というのをもっと広い視野から見つめられるようになった方がいい、という意味で。ヒトに親切にすることは自分のためだと思っていますし。


でも、どういう風にしたらITに関して何かを選べるようになるか、とかいうのは、教えてくれるヒトは探せば絶対にいるので、自分の質問する力というか質問ベクトルを磨かなくちゃいけない気がします。つまり……、本質を求める目で質問できるようになっておくこと。うまく言えませんが。表面的な損得ではなく、真の損得を求める意味でパソコンの質問をしていけば、今は初心者でも上達は早いと思う。これは年齢とか関係ないです。いろいろあって、40代50代60代くらいの方々にITをお教えする機会に恵まれているのですが、「年だから物覚えが悪くて……」っていうセリフは、そういう「本質エンジョイ派」の方はまずおっしゃいませんね。同じ操作を何度も何度もお教えすることはありますが、同じ繰り返し作業を求められても、教える側としての気持ちが全然違います。こういうヒトがもっと団塊の世代とかに増えてくればいいのになあ。
教わり上手、学び上手になっていくことって、コレから大事だなあと思いますよ、つくづく。



……何を書いてたんだか良く分からなくなってきましたが(汗)。


まあ、つまり、デジタルデバイド*3っていうのは、企業や情報社会リード側の動きが速すぎるから起きるので、消費者が賢く立ち回りつつ、学び上手になって、自分に必要な物だけをうまく取り入れていくようにしないと振り回される危険がある、ということを書きたかったんです。
で、それをうまく取り入れるためには、知識云々よりも心構えとして、本質を見る目を失わない、自分の目的のために大事なことは何かをしっかり柱にしつつ、色んなことに目を通していく……注意力とスルー力の両方が必要なんじゃないかなあと思っています。
Windows Vistaを出す以上、Microsoftさんにはものすごい責任があるので……ある意味、人類に対する責任ともいえます……まあ、頑張って下さい。そして、きちんとした責任の取り方をしていないと消費者が感じたら、いろいろなアピールをして伝えるべきだと思っています。*4

*1:たとえば、部屋のドアを開く時に握る物が、丸いノブと、レバー式のノブ、どちらが使いやすいかって人や設置用途によって異なります。がっちり締めておけた方がいい防音室なんかはレバー式のノブがいいですし、普通のドアは低予算な丸いノブが多い。でも、どっちにしてもノブは内部の鍵機構(システム)につながっていて、そこから出っ張ったモノ(ノブ)が使うヒトの手に触れて、そこを通じて内部の鍵を操作するっていうのは、丸いノブでもレバーノブでも変わらないわけですよ。で、システムを動かすためにヒトの手に触れる見た目の部分を「ユーザーインターフェイス」って言うわけです。パソコンだと、画面の端の上(Macだと左上、Windowsだと右上)のボタンを押すと画面を閉じられる、といった、人間が操作する部分のことを言います。そのボタンを押す、ということを通じて、パソコンの中では「ウインドウを閉じるシステム」が働いて、閉じられるわけです。人間がパソコンを操作する以上、いろんな所をさわっているわけですね。ユーザーインターフェイス(UI)の見た目と使い心地のコトを「ルック&フィール」なんて言いますが、その触り心地が人間に取って使いやすいかどうか……それは、現代のOSにとって死活問題です。使い心地の悪いパソコンを無理に使うことはないと思うのですよね。

*2:ある意味真実である意味間違っている。

*3:情報技術の習得力格差に起因する、さまざまな格差のこと。

*4:2年でXPを切るのは現実的に無謀だとか、そういったことを含めて。