ヱヴァ・漫画作品におけるコスモスとカオス

ヱヴァがらみで思い出した話。
エヴァ(旧世紀版=テレビシリーズ+映画2本)の結末について、知っている人は知っている。
ということで、今回はバリバリネタバレである。






















これくらい空ければいいかな。
以下、いろいろと書くけれど、原典を当たらず記憶だけで書いているのであしからず。


エヴァのラストは、人類補完計画=みんなの心も体もLCLの海に溶かしてひとつにしてしまおう! というのがなんだかんだでそれなりに実行されつつも、やってみたらそれは自分が求めていることと違っていた、と、感じたシンジの判断により、自分のほかに他人がいる世界に再構築されたところで謎めいて終わっている……と、私は受け止めている。
具体的に何がどうなってこうなって、というのは、それこそ今再放送中のテレビシリーズなり、DVDなりで確認できるだろう。
で、その動きの中で、心の中に踏み込んで描いたのがテレビシリーズのラスト2回。現実に何がどうなっていたのかを描いたのが映画のラスト2回のようだ。映画のほうでは、すべての使徒に勝利したあとの人間同士の闘い、そしてサードインパクトの実行について、などなどが描かれているようだ。


ところで、この、多様性(カオス)のある個々の人類のあり方を問い、何らかの形で人類をひとつの個として統一して秩序(コスモス)のある平和を目指す、という方法については、エヴァ以前にもさまざまな漫画作品で取り上げられている。


アニメではなく、武内直子さんの少女マンガのほうの「美少女戦士セーラームーン」も、最後にすべてのセーラー戦士のもと(スターシード)を溶かしてひとつにした世界を作れば、争いが起こらなくてもいい、さあどうする? というシーンがあったと思う。結局、月野うさぎはたとえ闘いがあるとしても、多様性があり、仲間が、友達みんながいる世界を望み、全セーラー戦士を復活させて地球に帰るのだ。


直接的にこういったコスモスとカオスの闘い、というテーマでもなかったような気がするが、竹宮恵子の傑作「地球へ…」(テラへ…、と、読む)でも、超能力者の民族「ミュウ」は、全員がテレパシーなどが使えるため、意思の統一ができていて平和を愛しているという設定だった。このときも確か、多様性を受け入れるような方向で話が進んだ気がする。


ほかにも作品がありそうな気がする。統一と混沌、というテーマを拡大解釈すれば「鉄腕アトム」にも差別問題が取り上げられているし、差異の統一や共通理解の問題を取り上げた作品例は、たぶん枚挙に暇がないのだろう。漫画だけではなく、小説や伝承、紙芝居、絵本など、ジャンルを広げてしまえばたくさんの例があるに違いない。
そういった作品では、ヒト同士が理解しあうことの難しさと重要性、理解しあえなかったときの悲喜劇を描いているものが多いのではないだろうか。
現実としてヒトとヒトが理解しあえないから戦争は起こっている。しかし、ヒトはヒトを理解しようと努力したり、ヒトを救おうとしてもいる。


100%理解しあえないとしても、10%でも理解しようとしたら、とりあえず戦争はしなくてすむのではないだろうか。



ヱヴァの話に戻ろう。今回は旧世紀版とは異なるストーリー展開をし、最終的に異なるラストシーンを準備しているらしい。
実際、今回の「破」は旧テレビシリーズとはまったく違う展開を見せている。
使徒との闘いと生き残りたい人類の姿を通じて、最終的にこの「コスモスとカオス」的な問題にも、何らかのヱヴァ流のコタエを出すのだろうか? それとも、また、見ているヒトこそが考えなくてはいけないことを訴えるラストになるのだろうか。
それは分からないが。……私は、ただ、見届けたいと思っているのだ。この巨大なうねりの行く末を。使徒と人間は理解し合えるのか、を。