感動の押し売りは勘弁して欲しい

あのS氏の偽作曲者騒動、なんだかんだで違和感。
時を並行して五輪もやっているが……なんというか、マスコミの「さあ、感動しなさい」キャンペーンにはいい加減疲れた。そういう土壌があったから、ああいう売り込み方も成立してしまった。そんなところにも原因がある気がする。
あれに感動、これに感動、さあみなさん泣いてください笑ってください。
……はあ。もう勘弁して欲しい。


常に辛い物を食べていると、微妙な甘みなども分からなくなるように。
感動感動感動感動感動感動感動なんてやっているから、その「感動」は真実か、というフィルタというか検知器、感覚が麻痺してしまったのではないかと思う。
普段からクラシックを聞き慣れている人、あるいは、耳の聴こえない人とおつきあいのある人であれば、S氏には違和感がたくさんあったようだし。


曲自体には矛盾がないし、N氏がいつもとは違うフィールドでなさったことはなかなか興味深いが、S氏の曲についての説明(=宣伝ポイント、ウリ)と、曲を照らし合わせると、ムジュンや不整合が多々出てくるようだ。そのあたりを付き合わせて考えられる専門家の知見を入れていたら、NHKが特集を組む前に、ことの次第は露見したかもしれない。


テレビの現場は知らないけれど、毎日「感動」を発掘しないといけない、感動量のノルマでもあるんじゃないだろうか?
ノルマを達成しないと家に帰れない仕事というのは業種によってはあるけれど、実体のない感動とかいうものにもあるのだとしたら。


家電量販店に行ってみると、家庭用の大型テレビがいっぱい並んでいたりする。
ああいうサイズの物が一般家庭の中で幅をきかせているということ、それ自体がすでに狂気なのではないか、とも思えてくる。
今の日本の家庭で一番声が大きいのは、父親でも母親でもなく、テレビだ。


テレビの中の世界は、ある恣意的な意図でゆがめられている。
それはドラマなど架空の出来事だけではなく、ニュースにしてもそのニュース番組のディレクターがどのニュースを中心に据えるかで印象が大きく変わってしまうし、ドキュメンタリー番組にしてもそう。テレビその他メディアからの情報は、なんらかの意図というフィルターをどうしても通す。その意図を持つ者を、消費者は信頼して(というか、構造上、せざるを得ない)テレビを見る。


ソチ五輪に出る日本選手は、日本人なら「当然」応援すべき物である。
という、言説がテレビなどによって無意識にすりこまれるように流布される。
(選手には当然頑張って欲しいと思っているが、なんというか、応援しなくちゃ「いけない」もの、というのは……疲れる)
自分の文章が妄言であって欲しいが。


この社会で生きて行くには、ある程度はメディアに頼らなくてはいけないようだけれど。
人と上手くやって行くためには。
正直、本件でいろいろと露呈された、メディアによる情報操作とか、売り操作というかには、あきれはててしまった。
発案者はS氏だろうけれども。
それは感動的だろうという大声性能を付けたのはメディアだから。


そういうことをしないと、演奏会にお客さんが来ないとかそういうことなんだろうか。
現代音楽にお客さんが来ない、というのなら。
お客さんが来る工夫を考えることが必要では、ある。
しかしそれは、大声で感動を押し付けることではないと思う。少なくとも。
もっと曲についての啓蒙をするとか、うまい説明をするとか、そういう地道な努力が結局は近道なんじゃないかなと。


今後、誰かを祭り上げて時代の象徴とするような動きには、本当に注意しないといけないだろうな。
印象操作ってそういうものだから。実体がないものに、無理矢理実体を取り付ける……。
もういい加減にして欲しい。