新型コロナより怖いもの

先週末のお昼前のこと。
ラジオを聴くとはなしに聞いていたら、仰天させられた。
リスナーさんからのメールやファックスをリアルタイムで紹介する、よくある番組だった。
週末のリスナーさんたちがどうしているか、というテーマに届いた、1本のメール……。
「今、都内から車で小田原に向かっています。小田原に美味しいお寿司屋さんがあって、そのランチが目当てなのですが、道路が渋滞しており、まにあうかどうかわかりません」
がく然とした。
都内から小田原方面に向かうのはこのリスナーさんだけではない。渋滞するほどいろんなヒトが向かっているというのだ。もちろん、遊び目的のヒトばかりではないだろうが、ビジネスオンリーなら、ランチが心配になるレベルの渋滞にはならないだろう。
普段であれば、小田原にまで食べにいくお寿司屋さんってどんなだろうとか、美味しそうだなぁ、とか微笑ましいのだが、今は有事ではないのか? そう認識している自分は間違っているのだろうか。今は、ある種の戦争のようなものではないのか?
先週末は、都内の名所は混雑していて、いくつかのアミューズメントスポットも再開して賑わったという。
確かに春が来たし、桜もほころんだ。いつもの春なら、いっぱい遊ぶのは良いことだ。観光地にヒトがたくさん集まって、活気があふれ、モノが売れる。お客さんの胃袋も満たされ、経済が廻る。素晴らしい。
しかし今は、人類史上レベルでまれな感染症の流行期なのだ。それこそ、100年後の世界史の教科書には、感染症の歴史については、ペストや天然痘スペイン風邪などと並んで『COVID-19』が載っているかもしれない、そんなレベルの状況なのだ。
あのリスナーさんは、自分たちが新型コロナウイルスの無症状感染者であり、東京から小田原方面にウイルスを運んでしまった可能性は0パーセントだとでも思っているのだろうか。渋滞するほどの交通量になった他の車の人たちも同様だ。
正直、全員の車が同時にパンクして即時に停車して欲しいとラジオを聞きながら思ってしまった。そしてそんな自分がそら恐ろしくなったが、こんなときに群れなして遊びに行く人たちへの立腹自体は、間違った感情とは思わない。あの日の天気はよかったが、こっちの気分は泥沼だった。
新型コロナウイルスそのものより怖いもの。
それは想像力の欠如のように思う。
見えないものを想像するのは大変だが、人間ならばやらなくてはならない。その想像力が、大切な人や自分自身を護ることにつながるはずだ。
それに、意図せぬ殺人者になど、自分は絶対になりたくない。このウイルスに自分が意図せず感染し、意図せず誰かに移すというのは(他の人のことは置いておくが)自分にはそういうことだと思っている。そうなれば、自分は一生後悔するだろう。
公共交通機関内ではスマホを使わず口を開かない。つり革は他人が触らなそうなところ(輪の上のベルト)を利用。鉄道下車後は手洗い。駅や店頭でハンドエタノールを提供していたら積極的に利用。帰宅後は洗顔を含めたウォッシング、うがい。スマホとめがねは毎日クリーニング。もちろんトイレの後や食事前には手を洗う。できるだけ換気。日々入浴。起床時の検温。
ある日、数えてみたら1日17回は手洗いしていた。これでも不安は残るが、戦う術はこれしかないのだ。

追記。
こんな状況で和牛商品券ということを言い出したヒトがいたという。自分としては不快感むしろ絶望しかない。彼らには、本当に想像力がないのだろう。未曾有の感染症に困窮する医療現場や、仕事がなくなり生活に困っている国民が見えていれば、そんな発想は1ミクロンも出てこないはずだ。彼らに想像力があるとすれば、自分たちだけが利権でリッチになれる甘い夢についてだけなのかもしれない。
マスコミにあおられるままに買い占めに走るヒトたちも同様だ。その買いすぎが、他の欲しい人から物を奪っていることを、流通のバランスを崩壊させていることを、もっともっと考えてほしいと思う。
自分だけなら良いのだろうか。