大海を知りたい井の中の蛙

あるメディアを通じてモノを知るとなると、そのメディアにとって都合が悪い部分は隠されてしまう。


人間が、もっとも古くから持つメディアとは(現存する最古の……うんぬん、ではなく、真実として最古のもの)、多分、言葉か、絵だと思う(勘と類推以外の何者でもないが)。


その時でさえ、多分、本当に発言者に(あるいは、絵描きに)とって都合が悪い部分は、何となく隠す、ぼかすなどしたのではないか。
誰だって、自分の行為から不利益を被りたくないものだ。
本当に感じていることは、それこそテレパシーでもなければ伝わらないだろう。
あとは……演奏するとか、歌うとか、吠えるとか叫ぶとか……が、結構近いものがありそうだが……。しかし、『感性そのもの』を伝えることには無理がある。発信者からしてみれば、『出した→通じた→伝わった……だろう』と、信じるしか無い。


考えていることを手軽に文章化できるのが、ブログのいいところだけれど。
文章化することは、思考の量子化*1のようなものだ。
そのときに、量子(=文脈)に出来ない部分は切り落とされる。
だから、誤解も生じる。行き違いもある。
言葉の行き違いで本意が伝わらないことは、しょっちゅうあることだ(特に、恋愛においては)。


ここ数日書いているが、本当に面白いことは、インターネットの外にある。
生、が一番面白い。


プラド美術館展」にこの間行ったけれど、公式ブログで放送中のVideo Podcastよりも、現物の絵の方が遥かに面白くて迫力があった。
図録は本当に良く出来ていたけれど、多くのコピーよりも、現物一点の方が、多くを語ってくれている。*2
しかし、映像やブログ、図録を通じて知ったことも、大変良い勉強になった。


こういうことを踏まえた上で、言葉やインターネットを使うことと。
言葉が全てだとか、ネットが全てだと思っていることとでは、明らかに雲泥の差だ。


井の中の蛙』ほど、井戸の内部状況に詳しい者もいないと思うが、残念ながら大海を知らないが故に、蛙は井戸の専門家で終わってしまうだろう。
大海を知っているカエルは、きっと、カエル人生が楽しいだろう。井戸の中のカエルは、思考の穴に潜り込んでしまうのではないだろうか。


つまり。
現実や世間を良く知っている人達こそが、ネットの中のものを本当に活用できると思うのだ。
『話半分』の意味を熟知している人たち。
『世間は甘くない』と心底から知っている人たち。


最近、自分の身辺でそういった方々から『インターネットの使い方』についての質問が多いのだが(特にブログ関係)。
どう伝えたらいいか、悩んでいるところである。

*1:ここでの意味は、デジカメで写真を撮る時などに、アナログ→デジタル変換回路が、レンズを通して見えたものを、格子にかけて、色合いを数値として集めるようなこと。

*2:私は『サムソンとライオン』に打ちのめされたが、敢えて詳細は語らない。言葉で言い表すことに無理があるのが分かりきっているからだ。