「できない」ことを解決出来る力は、どうすれば身に付くか?

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku2008/0809-1.html
2008年9月1日(月)にNHKで放送された「クローズアップ現代」では、Wikipediaその他Web上の情報リソースから巧妙に「コピペ」してレポートを作成する大学生の現状報告、そしてコピペ行為の是非が問われました。


http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0809/03/news015.html
それから、今日、ITMediaに挙がっていた記事では、「習っていない→できない」と考える新入社員に対して、どう「動作原理から学ぶことの意義」を伝えたらいいか、考えられています。


たまたま、私はこの二つのレポートおよび論考を目にする機会があったわけですが、自分の職場(都内某大学のパソコン室でのサポーター)でもこういう学生さんは、結構いるように感じられます。
たとえば、「Wordでネット上の画像や記事をコピペしたいが、やり方がわからないので教えて欲しい」などは、繁忙期には毎日数回〜数十回は質問されます。
その都度、著作権上の問題や正しい引用の仕方を出来るだけ伝えるようにしていますが、質問が立て込んだときにはあまり丁寧に指導できません。
文献からリソースを得ようと、ネット上だろうと、情報があるということは事実です。ですから、文献から引用するときは出典を明記するように、ネット上からの情報でも明記して当然だと思うのですが。高校でレポート作成方法を習ったときに、参考文献はきちんと付記しておくことを注意されたので、そのつながりでネット上の情報も、URL、また特にネットは情報の陳腐化が激しいのでいつの情報なのか、日付程度は付記しておくのは当たり前だと思っていたので……。
ネット上の情報を使うな、とは言っていません。この便利な時代、使ってもいいと思いますが(正確さに時には難点もありますが、公衆に公開された情報という点では文献と同じ)。ただ、レポート作成の指針をまとめる際の基本情報や自分の主張をするための引用として利用し、自分のレポート本文そのものとしてはならないことくらいは当たり前だと思っていたのですが……。
Wikipediaからの転載でレポートを仕上げている学生は本当に多いようです。せっかくの機会に自分の言葉で考えないことは自分が損するだけだと、どうして分からない(想像できない)のか、本当にいつも疑問です。


このコピペレポート問題、どうやら小学生、中学生から始まりつつあるようで。昔読んだ児童文学で「宿題引き受け株式会社」っていう作品があったのですが、それがリアルになっているおそろしい時代、先生方も大変であろうとお察しいたします。レポート代行業が少し前にネットでは話題になりましたが、今は自分で拾ってきて書いてしまう。


この問題と、「分からない=できない」にしてしまう新入社員が増えているという現状、根は同じところにありそうです。自分の頭で考えずに結論を出す習慣が、ハタチ過ぎても身に付いていないのでしょう。特に、Webサーバ管理という高度な専門職を目指す人間の中にもこのような人が増えているのは、憂うべきことだと思います。Webの世界はどんどん技術が進歩しスタンダードが変化しますから、基本的な部分を学ぶときから「何でそうするのか?」「何でそうなるのか?」をしっかり把握していないと、将来的には技術についていけないはずです。未知の事態にどうやったら対応できるというのでしょうか。現場は未知の事態だらけだと想像することすらできないのでしょうか。


こんな学生が増えた理由ですが、個人的には、受験勉強のように、あるフォーマットを頭に入れておけばOK、試験もその中から出題されるという日本的な教育が、根本的に時代遅れになっているからではないか、と思っています。
自分自身、中学まではわりと勉強は好きなほうでしたが、高校で勉強が嫌いになってしまって。でも生物の実験やプログラミングの授業は、決まった答えを出す必要が無かったので好きでした。答えが決まっていて、それを言えるようになればいいっていう受験勉強にどうも疑問を覚えたのが、高校時代です。今だから書けますが、偏差値で言えば、中学時代までは70前後、高校では40以下まで下がりました。それでも、高校はわりと自由な校風だったので3年間楽しませていただきましたが……答えを覚えて何が楽しい、という勉強に対する根本的な疑問が拭えずじまいだったので……。


閑話休題
レポートに決まった答えなど、あるはずがありません。ある事象を自分なりに調べて(もちろん、出典や版(バージョン、元記事の作成日)を明記すれば文献でもWebでもシームレスに「引用」してOKです)、その結果、思いついた考えを自分なりに書けばいいのです。本来はレポート作成は、それなりに知識や知恵の冒険であり、楽しいはずなんです。
その楽しみを大学生になるまで経験していない、教えられていないとすれば、日本の高校までの教育カリキュラムが機能不全を犯しているといわざるを得ません。


しかし、学生からは『レポート作成が楽しいなら、その楽しみ方を教えてください』とか言われそうですが……。
本来、「あそび」「知的好奇心の充足」に、取扱説明書なんてありません。自分の思うように工夫していい。
もしかして、子どもの頃に砂場とかで好き勝手に遊んでいないから、全部をマニュアル通りに遊んでばかりいるから、大人になっても言われたとおりのことしかできない、自分で考えることが出来ない、そういう人が増えてしまった……そういうことなんでしょうか。
そういえば、砂場が衛生上問題があるから、と、行政の手で各地の公園で閉鎖されてからずいぶんになります。正確には覚えていませんが、その時期に子どもだった世代が、そろそろ高校生とか大学生になる頃かもしれません。


言われたこと以外はやってはいけない、と、子どもに強制して当然な時代であるとしたら。
それが現在の考えない学生の増加につながっているとしたら。
ものづくりができない人間が増え、日本の未来が危ぶまれるように思います。
杞憂であることを切に祈ります。
将来的な「できない」→「解決」への力は、子どもの頃の砂場遊びで養成されると思います。


そして、現在「出来ない」にハマって出られない人間には、それなりに自力で解決するしかない類の問題を強制的に出題するしかないでしょう。
つまり、提供する資料を絞り、ある1室に閉じ込め、そして自力だけである問題を何とかするように仕向ける。
教育はある意味で、あることを強制して学生が自ら這い上がる力を自分で引き出すように促すことでもあると思います。
そして、意外に自力でできる、という成功体験をすれば、それがどんなに小さく見える課題であっても、その人のベース、基盤になると思います。
今の教育の現場からは、教師から生徒、学生にある種の(いい意味での)強制をするという雰囲気が欠けている。前向きなプレッシャーを与えて鍛える、という空気が無い。
これが非常に問題なのではないでしょうか。