京都大学その他の入試問題漏えい問題

さて、大学を職場にしている人間としては、他人事ではないこの問題。


現在、大学を受験する18歳から20歳程度の学生の皆さんは、日本でインターネットが流行り始めた15年前ごろは3~5歳。つまり、物心ついたころには家庭にWebがあってほぼ当たり前でした。
それから、メール機能付きのケータイ電話を小学〜中学頃には大半の人が持っていたでしょう。


日本でブログがブレイクしたのは2004〜6年頃。小学〜中学のころには、モブログSNSをしていても当然。プロフサービスによる問題が出てきた世代より少し下にあたり、まさに、空気のようにケータイがあり、Web2.0がある世代です。
だからこそ、気軽にQ&Aサイトが使えた、といえそうです。
私も『人力検索はてな』を使っていますし、質問する側の気持ちも、回答側の気持ちもそれなりに分かるつもりです。知っている人に質問するより、ある意味気軽に質問できて、しかもかなりの確率で参考意見や正解が聞ける(世の中、教えたがりの人っている物ですから)。おまけにたいていは無料。
わらをもすがる思いで、試験中にケータイを使ってしまったのかもしれません。
もちろん、してしまったことはほかの受験生にも教職員にも大迷惑でしたし、本人自身の将来のためにもならない。多いに反省して欲しいのですが、それはそれとしても……。


この状況を大学側、またはそれまでを支える基礎教育側があまりにも分かっていない。


いわゆる宿題やレポートの『コピペ問題』と、問題の根っこは多分同じでしょう。
大人が楽観的、安易、かついい加減にWebを広めてしまった責任を、子供たちが取らされているように見えてしかたがありません。正直、私自身の受験戦争時代にWebがなくて良かったと思っていますし。


あんな安楽な手段が提供されていたら、努力するのがばかばかしくなってしまってもふしぎではない。


つまり、自分の力で解けない課題は、Webのあちら側の大多数の人(またはwikipediaなどの資料)に投げて、解決してもらうことが、空気のように当たり前である、というのが現状なのです。
もちろん、それで助かることは大いにあります。しかし、それをやっていいときと、やってはいけないときの使い分けってある思うのです。
たとえば、新宿ではどこのレストランがおいしいかとか、そういうことには役に立つと思いますが、宿題は自分の力でやらなければ意味がない、ということなんです。あまりにも当たり前のことを、学生さんが心からは分かっていない。


大学入試の現場では、試験中の見回りを強化したり、ケータイを預かったり、机上に出させたり封筒に入れるなどの対策が取られているようですが。それらもケータイを二台持ち込まれたら、やすやすと乗り越えられる程度だと思います。電波妨害装置の導入も検討されていますが、コスト的な問題もあるでしょうし、第一今年の入試には間に合わないでしょうし。
これは、大学だけの責任ではないと思います。


根本的な解決策は初等教育の場に求めたいと思います。小さいうちから、自分の力で問題を解決する意義を正しく伝え、正解を導き出せる成功体験をたくさん積ませてあげること。大変な思いをしても、いつかやり遂げられることを信じさせてあげること。
基礎の反復練習の大切さ。たとえば漢字の書き取りなど。
そういった、基本のキ的な部分を、教える側が生徒さんと汗をかいてきちんと教えてこられたか。先生だけではなく、親が子供たちに対して、そういうことを大切にしてこなかったからこそ、こんな問題も起こってしまったのではないか、と。


たぶん、今年の場合は京都大学という国立有名大学で起こったからこそ、これだけ報じられているだけで。一過性の問題のように扱われてはならないと思います。以前から宿題に対するような質問はQ&Aサイトに良く寄せられていますし、おそらく似たようなことは他大の入試や資格試験などでも、以前からあったのではないでしょうか。
この問題、きちんとした解決策を国民全体で考えて、身近な子供たちに伝えていかないと、10年以上は長引きかねない気がするのです。

学びに対する心、知るは楽しみなりということ。
そういうことを伝えていなくて、ただ結果だけを出さなくてはならない、点を取るためだけに勉強しなくてはいけないという認識が、今の高校生で一般的だとしたら……。日本の将来を憂いてしまいます。
なんのための入試、なんのための受験勉強なのか。高校で一生を支え得る基礎教養を得て、それを持って大学への門を叩くために、その資格があるかを問うための受験ではないのか。
高校生自身が点取りだけを考えているのだとしたら、教える側が受験という機会ではあるけれど、勉強することとは点数それだけではないということを、ちゃんと伝えていなくてはならないと思います。


改めて、教育って怖いな、と、感じているところです。そしてその重要性も。