911の衝撃から5年。

5年前のあの夜。
夜のニュースでやっていた映像は、新作映画の予告にしか見えなかった。
むかし、某有名プロバイダのCMで、飛行機がビルに飛び込むシーンをやってたけど、それくらい「ありえない」シチュエーションとして、普通の人には思われていたはずだ。
それを、本当に「やっちまった」人がいたわけだ。人命を人命とも思わない計画。狂気の沙汰。


映像も良く覚えている。
確か、勉強かなにかしてて、一段落付いて居間に来たら、テレビを前に父が言った。
「ニューヨークのビルに、飛行機が飛び込んだらしい」
「はぁ!?」
CNNのニュースは、冗談としか思えなかった。
今、当時の「NewsWeek」を見ても、映画としか思えないのである。
それくらい現実感のない悲劇だった。


あの後、世界史は大きく変わってしまった。
そして私は、戦争をしたがっている人たちがいるということを、リアルタイムの事実として認識することになったのだった。湾岸戦争の時は、報道されていても残念ながらピンと来なかった。しかし、東京で暮らしていると、ビルがぶち倒されたという衝撃が想像できる気もする。
歩き慣れた新宿のビル群を下から眺めた時、これが倒れたらどうなるんだろうと、怖くなったことはあった。同様の思いを抱えた都民の方は、私の他にもいるに違いない。


世界大戦になるかもしれない。そんな妄想を抱くほどに、ニュースは警告一色になった。
それまでもなかったわけではないけれど、戦闘している画面、砲撃音が、お茶の間に当たり前のように届けられる悪夢の時代になっていった。
恐怖をあおり、敵対心を国民に植え付けるのは、戦争をしたい国がよく使う手だ。
米国国内にそういう空気が流れていることを「華氏911」で知った。
時代背景は違うけど、報道管制を敷けるだけ敷きまくっていた戦時中の日本に似ている気がした。ウチには、当時の召集令状はじめ、新聞記事などの戦時資料レプリカ集がある。それを読んだことがあったので、私には少しは想像できると思う。国民全体がビクビクしている国の空気が。


最近、「大量破壊兵器の証拠がなかった」という報道がなされた。
考えてみれば、大量破壊兵器を持っている国が、持っているかもしれない国を疑って戦争をしかけるというのは、おかしな話なのだ。そういうことを牽制程度にやるのはまだいいかもしれないが、本当に戦争にして、物のはずみでその「大量破壊兵器」を使われたり使ったりしてしまったら、それこそ収拾がつかなくなるはず。未来は予測できないのだ。使われたり使ったりしたら、誰も責任など取れまい。


物質には気持ちがないと思うけど。
もしもあるのだとしたら、あのイラク戦争で大活躍してしまった兵器諸君に聞いてみたい物だ。この形に整形されて、この仕事場で大活躍して、君たちはしあわせなのかと。


テロをした側も、報復した側も、そして、この事態を見ているしかなかった側も……散らした生命の重さを背負って行かなくてはならない。ある種、現代人はみな、この事態の当事者であり続けているのだ。
合掌。