型と自由と。

吹奏楽にもある程度の物がありますが、なんというか、芸事には、ある種の「型」が存在するように思います。たとえば、純正律で合奏する事とかは、一つの日本の吹奏楽の型となりつつあるようで(私の育った楽団が、純正律重視型のところばかりだったので、特にそう思うのかもしれません)。
剣道や華道などの日本伝統芸術(だと思うんです、剣道って)も、そういうのが基本です。


では、やってる方は堅苦しくないのか、とか思うのですが、それがまた違うみたいで。
一つの規範のもと、どれだけ自分らしいものを創れるか、というのが、一つの勝負になっているんだと思うのですよ。
一見、二律背反していますが、実は成立しうるんですよね。
大阪のバンドが作って来た純正律と、東京のバンドが作って来た純正律では、また、ニュアンスが異なっている事もありますし。結局、音は人が創るから。


では、人生にも、型があるのか、そういうことをここ数日考えています。
たとえば、いい大学をでて、いい会社に入り、よき配偶者を得て、子どもは3人、とか。そういうの。


なんとなく、自分自身にはそれは当てはまらないなあ……というのが結論で。
これは純正和音を皆でつくるとか、皆で芸術の伝統を守りつつ自分の個性を出すとか、そういう事とは次元が違う問題みたいですね。


個人は社会を構成する最小単位ですが、社会的規範の元に常に居ないと社会が崩壊するかと言うと……そうともいえない。
どうしても、脇道を走りたがる人、野山に散歩に出たのが野山がメインルートになる人、そういう場合がいっぱいあり、それでも、社会はそれなりに成り立っていたり、もする。


みんなで同じ42.195キロを走るのだけが、マラソンではないと思うし。どうしても体力が続かずに棄権する人、歩いてでも完走する人、それから、なにより、そういう皆を応援するたくさんの人たち。いろんな楽しみ方があって、それで、マラソンって競技は成り立っていると思うし。流された汗がきれいだったら、それでどんな走りをしていても、みんな正解なんじゃないの? と私なんかは考えます。テレビでは首位のグループしか放送してくれませんけどね。せめて、自己新記録を更新した人が何人いたかくらい、放送してくれればいいのになあ。楽しいのになあ。


ま、ともかく。
規範を守る事も大切だけれど、自分が納得できる事の方がより大切なんじゃないか、それで、周りとぶつかる事があれば、誠心誠意ご説明申し上げ、自分自身も不惑不乱の努力を積み重ねる、守りたい物があるなら、これしか無いんじゃないか。
どうしてもマイノリティなゾーンに入ってしまう自分には、マジョリティの論理が受け入れられないから、せめて、プライドだけは守りたいなあと。


トロンボーンの原型となった楽器「サックバット」の語源には、「剣」という物があるそうで、それは、スライドを抜き差しするのが剣のようにも見えるからだとか。
つまり、私には、あの楽器君が武器になるのかもしれないなあとも。
周りを傷つけるのではなく、自分を守り育てるための剣道。それが自分にとってのトロンボーンや創作楽器なのかなあと。


そういう強さが欲しくなった、月曜の朝なのでした。