勝手に使うな論と共有して進化させたいよ論のあつれき

ネットの中では、割と、誰かが作ったり書いたりしたものを下敷きにして、新しい何かを作るということが活発におこなわれている気がする。


でも、これ、リアルの世界ではこんなことやったら結構まじめに怒られてしまうんじゃないかと思う。


それ、私が考えたんだから、勝手に作り変えないでよ、と思う人もいるだろうし、自分のアイデアを加えて、さらに良いものにしたいよ、と思う人もいる。


どちらも正しいんだけれど、今のインターネットの世界では、後者の考え方を理解しておいた方が、腹を立てなくていいんじゃないかと思える。その考え方に賛同するかどうかはまた別の話だけれど、考え方と意義を知っておくことは、無駄じゃない。


自分が正しいと思っていること以外には、耳すらも貸さないのが問題だと思えるんだ。
そんなことをしたら、ネットというそもそもが交流と発信受信を基盤にしたメディアを否定するようなものなのだが。


インターネットを受信専用(検索しか使わない)人たちは、思い切ってなんらかの発信手段を持つといいのに、と、いつも思う。
ちっぽけな自分だけれど、すごいことをしている人たちに接するたびに、歯がゆい思いをする。それ、どうしてネットの上に流さないのだろうと。ほかの人を助けたり、新しいものができたりするかもしれないよ、と。


多分……怖いのかな、不特定多数に見られるということが。でも、それを怖がることも、もっともだと思うんだ。人間として必ず持っていなくちゃいけない警戒心のひとつだから。
問題は、どこまでをネットの上に流してもかまわなくて、どこからは流すとまずいっていう、自分なりの定規、ガイドライン、ルール、規範のようなものを身につけることだと思う。
情報発信者としてのメディアリテラシーって、きっとそういうことなんじゃないかな?


おそらく人類は、ネット以前の世界には、もう、戻らないだろう。この地球が滅亡しない限り。あるいは人類が滅亡しない限り。
それははっきりしているのだから、自分なりの発信手段を持ち、自分を進化させることは、生きるために紙と鉛筆とある程度の暗算ができるのと同様、これから重要なことになっていくと思う。これは世代を問わないことだと思っている。


……なんでこんなことを書いているかというと、先日、ある知人から頼まれて、インターネットなら十分使えるスペックのパソコンが不要になったから、欲しい人がいないか聞いてみて欲しいということで、聞いて回ったからだ。こういうとき、メールは便利だ。たいていみんな、携帯でならメールは使っているから。私の友人の中にはパソコンを持っていない人も結構いるんだけれど、結局だれも欲しいといわなかった。たぶん、なんとなくいらないと思われているのだろうと思う。
ネットを日々経験していると、この無意識の拒否による自分でも知らない情報格差が、ますます経済的な格差につながっていったり、QOLの差になっていくんじゃないか、と危惧してならない。
本当に不要なのかもしれない。余計なお世話なのかもしれない。でも、本当にいいの? と思ってはしまうのだ。
まあ、自分も、自動車免許を持たないと危ないとかいわれたら、余計なお世話だと反発すると思うけれど(環境保護のために自動車にはできるだけ乗りたくないのだ。自分の人生が許すタイムリミットぎりぎりまで、自動車免許取得は避けたいと思っている。いつかは必要になるのかもしれないけれど、できるだけ使いたくない)。


ただ、自動車が嫌いなら電車やバス、自転車や徒歩という手段があるけれど。
インターネットの代わりの情報手段は、存在しない。
自分が発信して情報を能動的に得て、さらに受信もし、自分への評価を得ながら知性を高めていくメディアは、これほど高速なものはほかにはないのだ。
新聞やテレビがいかにニュースの本質を伝えていないか。私は「はてなブックマーク」で知ったところが大きいのだけれど、あのサービスは自分も参加してこそ面白いんだと思う。
スポンサーや広告代理店に都合の悪い事は、暗黙のうちに伏せられてしまうのが、既存メディアの弱点だという視点は、インターネットで得た。


だからこそ、いまだにネットで情報を発信しないある人たちが心配になる。
余計なお世話でしかないのかも、知れないけれど。