客観性をキーワードに

今の時代ほど、客観性の観点がサバイバル技術となることは、人類史上かつて無かったのではないだろうか。
大昔も大昔。農耕、狩猟で生きていた時代。みんなで協力しなければ畑仕事はできないし、マンモスを狩ることも難しかった。
でも、道具が発達したり、知恵が付いたりして、大仕事だったことがだんだん分業化し、コンパクトになっていった。
歴史をひもといてザーッと脳の中で回してみると分かると思う。顕著なのは、「自分の家」を持てるようになったことかもしれない。現代では「ひとり暮らし」が一般化したということだけでも、いかに分業化が進んだのかがわかるというものだ。


さて、【お金のある人】の思考回路で考えてみよう。「自分の部屋」「自分の家」を持てるのが当然。家は自分で木を切って建てなくても、建売や分譲、借家など方法はいくらでもある。狩りや農耕をしなくてもスーパーでパッケージ化された食肉、魚、野菜、穀物等が手に入る。それどころか、お弁当、レトルト食としてまとめて手に入れられる。それらはすべて、お金で労力をまかなうことができる。お金で他人や機械にやってもらえる。
……逆の場合もあるわけだけれど。


そういうことが、経済的なことのみならず、メンタリティにまで及んでいるのが現代であるような気がする。モンスターペアレンツ問題、自分探し問題などについて、興味深いものを読んだので、以下に列挙しておく。


お金を払えば、自分を中心にした世界を築くことができるという大きな勘違い。これ、ある面では当たっているのだけれど、それだけが真理ではないということを主張したい。
たとえばこの勘違いを真実だと思っていく……そうなってくると、じゃあその「自分」とは何なのか? を必然的に考えることになる。それが「自分探し病」なのだと思う。正直に書くと、私自身、この病気の患者だと最近自覚し始めた。28歳ごろに失職したり転職活動をしたりして、「哲学的なテーマとしての自分探し」と「社会人になるための自分探し」の違いがようやく分かってきて……今、30歳。本当につい最近のことなんだと思う。気が付くチャンスがあってよかった。気が付いたときは、自分が追い続けていたものの空しさに愕然としたものだが。


社会人になるために必要なのは、『自分のスペック』が社会のどういうところでなら役に立てそうかを把握するための自分探しを経て、技術的スキルアップや一種のマナーなどの社交的『スキル』を身に付け、そしてそれを『PR』し、ニーズのある職場に『マッチング』すれば、働かせていただける。ただそれだけのことなのだ。当初、無理難題に思えたものだが、一つ一つを丁寧に考えていけば、けして難しいことではなかった。あとはラッキーもあったのは確かだが……。自分で敷居を高くしてしまっていた。就職が怖い、という人の気持ちは、よく分かる気がする。


ともかく。自分とは何か、なんて、趣味的に個人で勝手にやればいい。社会が関知するようなことじゃない。


「自分探し病」と「モンスターペアレンツ問題」には、関連があるように思う。
どちらも自己中心的で客観性を欠いた状態であると思うのだ。社会的には迷惑極まりない。でも、その「客観性無き自己中心主義」は迷惑である、ということを、遅くともまだ10代の心が柔軟なうちに、周りが気が付かせるべきだったのだが。
そして、そういう状態の人が、何かのきっかけで親になる。すると、わが子は無条件にかわいいものなので、わが子のために……という名目で、実は代理の自己実現のために……無理難題を言う。そして、その無理難題ぶりに気が付くことができない。


お金(税金)を払ってこの学校に通わせているのだから、そんなすばらしいアタクシの子どものためには何でもやってよ。


……。そういう人は、周りから叩かれなければ、気がつけないのだ。
私も就職相談のスタッフさんにそうとうしごかれて、それから当時の友人にもしごかれて、ようやくそのあたりの端緒にありつくことができた不出来な人間なので……よく分かる。


これに関連して、現在の仕事である、大学の学生サポートスタッフ職では、まれに学生さんの無理難題に付き合わされることがある。
自分の学習のための文具は自分で用意するのが当たり前だが、多いのはボールペンやホッチキスなど、レポート提出のための普段使わないような文具を貸して欲しいという要望だ。
しかし、他の部署で紛失事故があったり、故障したりの過去例もあり、ホチキス玉の管理などもバカにならないので、うちの部署では貸し出していない。そこで「今だけ貸してくれませんか?」「あなたが個人的に貸してくれませんか?」などと言われても、特別扱いはできないし、備品は個人のものではないから、無理なものは無理なのだ。
たいていの学生さんは「貸し出しはやっていない」とひとこと言えば分かってくれる。でも、中には無理難題を言って、どうにかして借り出してやろう、という人もいる。納得させるのは困難だ。妥協しないことが重要なのだが……。難しい。レポートは当然ながら成績がかかってくるものなので、学生も必死だ。でも、その必死の方向性が間違っていることに気が付かない。「ボクがこれだけ必死なんだからあなたも協力してよ」というのを当然だと思っている学生さんも、中には、いる。自己中心主義以外の何物でもない。そして、学生個人の人格攻撃のようなことは、さすがにこちらもいえない。
必死なのはいい。だからやれるべき便宜は図っている。たとえば、PCの使い方が分からなくてレポートを書けない、メールが使えなくて提出できないような学生さんには親身になっているつもりだ。しかし、自己中心的な要望は別なのだ。


基本的に密室の中で育てられる。社会的にも「自分探しは重要だ」「自己実現は大事だ」と教育される。
これでは、モンスター化するのも、無理は無いのではないだろうか。
自己実現と自己中心を勘違いしてしまうと、誰かに言われなければ気が付けないだろう。そして、社会的な風潮は割合に「他人のことなんてどうでもいい」という方に向き始めてしまっている。


何かを夢見て生きていくことと、自分勝手に生きることは、まったく違う。
何かのプロなら、誰でも知っていること。独りよがりな作品に、お金を払う読者はいない。読者のことを考えて、自己主張をするのが、プロの創作行為だということを。


客観性が無ければ、いずれ社会から淘汰され、そういう個人はいずれ社会適応障害によって滅びるしかない。
客観性は明らかに、現代社会のサバイバルスキルなのだ。
そのことの重さを、最近、日々噛み締めている。
気が付けなければ、誰も言ってくれないのが、現代では当たり前なのだ。勝手に滅びれば、それだけ椅子取りゲームの競争相手はいなくなる。それが現実だ。