労働の意味とは?

自分にとって、生きる意味とか、労働の意味って何だろう?
たとえば。
時給0円、延々と箱にものを詰めるだけの仕事。
誰しもこれだけではやる気にならない……と思う。


しかし。


全国各地から善意で集められた古着を仕分けし、世界各国の恵まれない地域に発送するべく、送付先別の段ボール箱に詰めるボランティア。


これなら、やっておられる方々は大勢いらっしゃる。


何が違うのか。


まず自分が意義を感じられる目的のための奉仕活動だということだ。


それに、ある程度の経験を積むと、洋服をきれいに畳むコツや、ひとつの箱にできるだけたくさんの洋服を収めるポイントがわかって来るだろう。つまり、もっとうまくなりたい……そういった「追求」をする奥深さがある。


そして、その試行錯誤の労力は、海を隔てた遠くの国の他人に喜ばれ、助かっているという実感をすることで報われる。お手紙をいただいたり、写真をいただいたりすることで。


だから、もっとうまくなろう、多くの洋服を集めよう、質の高い古着を確保するために洗濯や修繕なども呼びかけよう、スタッフを増やそう……そういったこともおこなわれるようになる。
実際、アフリカの子供に洋服を送ろう、そういう活動は時折耳にするし、それこそNHKボランティアネットのようなボランティア関連サイトから情報を集めることもできる。


まさしく、善の連鎖だ。
無給なのにそのレベルにまで達しうるのはなぜか。


人間には、他人を助けたいという欲求があるからだろう。
ただ、それをやるためには、自分の衣食住は前提だろうけれど。


今の日本で問題なのは、低賃金どころか、衣食住にもあぶれてしまう危機が、正社員のようなかつて安全と思われていた立場においてもありうるということ。それこそ、なにかボタンの掛け違いをやってしまったくらいのことが、その一着の服をだめにするどころか、自分の生活自体を飲み込む大火事になりかねないこと。それから、労働をしても他人を助けているような「役立ちの実感」がないこと。
きっと、この2点が大きいのだろう。
だから、絶望のあまりに自殺(自分への殺人)あるいは無差別殺人が起こったりもする。社会のモラルも低下する。


今は、幸いにも住まいはあるし、自分のお給料で食べていけるし、服も買えるし、医者にもかかれる。ゲームや自由演奏会参加といった趣味もできるし、友達にも会いに行ける。それから、目の前の学生さんが課題に詰まったときに、自分の助言で何とか乗り越えてくれている。それもうれしい。もちろん、お礼の言葉も。
学生さんが課題で手詰まりになったり、自分で疑問に思ったりすることなどから、今のIT教育やIT環境の問題点、改善点が見えてきて、この日記でささやかながらパソコンのテクニックを書きまとめて情報発信したりもする。たまにその情報にはてなスターやコメントをいただいたりもして、お金ではないけれど、そういうことがうれしい。


今の状況にはそれなりに満足しているから、生活をある程度保ちながら、もっと人の役に立ちたいなあと思う。
それが、自分にとって、この世知辛い日本で自殺を予防する手段になるのだろう。


……私にとって、働くというのは、そういうことだ。