ひとのためのコンピューティング

漠然と思っていることが、昨日、クラスメイトのみんなとお酒を呑んでお話をしているうちにちょっとはっきりしてきた朝なので、まだまとまっていないけどメモするのです。


今のコンピューティング教育に足りないと思う視点。ベクトルが違うと思うこと。
それは、結局の所、みんながパソコンを使っているから、キミも使えるようになっていないと、とても大変だから覚えようね、というようなこと。


まあ、たしかに、それはそうなんだけれども。


正しいんだけれども。


日本では日本語を覚えないと生きて行くのが難しいから、日本語教育をするボランティアさんが活躍していたりする。


そう、それは正しい。もっといいシゴトが出来るように行政も市民も協力してあげて欲しい。


そういうこととは別の観点として。


自分が生きて行くための道具が必要。周り中心のコンピューティングに関しての書籍も教育方法もあるけれど。
なんというか、自分勝手にコンピュータを使うための教育的なリソースの「何か」、が、今の日本には大幅に不足している。


その学生さんがより楽しく強く生きて行くための、彼ら彼女らの気持ちにコタエるようなコンピューティング教育。
それは、日本のコンピュータ文化の状況もまだまだそういう自発的なものよりも協調性的なものに力点があるから、そういうところも変えて行かなくっちゃいけないんだろうけど。


Officeを使いこなすことが、IT教育だと思ってないし、かといってメディア教育の振興と充実だけがコタエかというとそれもNo。
自分は両方の観点から合計……8年、アシスタントとして大学のITキョウイクってやつに関わってきているけど。
違和感がぬぐえない。
たぶん自分が関わってきている大学は、日本でも結構ITキョウイクってやつに熱心な部類のキャンパスだと思うのだけれど。マス教育にしろマンツーマンにしろ、そういうことを熱心に進めていていい大学なんだと思うけれど。


自分のやりたいことは、基本、環境を与えて放置、でも、学生さんが困ったらサポートに入る、それと評価はする、そんなスタイルなのかな、と。


これはなかなかできない。
大学ってそういう場所ではあるんだけれど、ITに関してはまだまだ、「ある型」をあたえてクリアしてこいっていうスタイルが主流なんだと思う。
自分の眼がまだまだ曇っていて偏狭的なのかもしれないけれど、「違和感」があることはそれほど間違っていない気がする。


う〜ん、まだコタエとするにはまとまってないなー。書いてみたけど。思いつくままには。文章にすると意味が変わってしまう気がする。
この「違和感」について、「デジタルデバイド」タグを付けた直感自体が、コタエなのかもしれないけど。
まだまだ今の場所で考え続ける必要がありそうです。人に言える段階じゃないかもなあ……うーん。


自分がやりたいシゴトって、こういう方面にかくれんぼしてると思うんだよな、たぶん。


あ、あとそうそう。
昨日友達が言っていたんだった。情報処理1種資格を取っておくと、なんだかすごいらしい。