巡査という仕事ってすごいと思った

大阪の交番でけん銃を奪われた事件、素早い捜査で容疑者の早期逮捕に漕ぎ着けましたが。
ちょうどこの事件の少し前に下記のコミックを読んでいて、交番のお巡りさんって大変なんだなぁと思っていた矢先の出来事でした。

元警察官の方が描かれた、新人女性巡査の奮闘記です。読みやすい絵柄で、知っているようで知らないお巡りさんのことをわかりやすく描いていて面白かったです。
ところで、新聞やメディアに取り上げられるのは本当にごく一部の大事件です。
たいていの事件などはまずは交番のお巡りさんが担当するわけです。
それで今回の事件についても、本書を読んでいても思ったのですが、巡査は本当に命を張る仕事なんだなあと。
多くの人は普通に人生を生きていたら、事件でお巡りさんのお世話にはなかなかならないと思います。私自身、落し物を届けたり遺失届を出したり、まだスマホを持っていない頃に道案内してもらったくらいです。失職中なのに中身にギッシリお札が入っているお財布を届けたときは、我ながらエライとちょっぴり思いましたけど(今で言うコウペンちゃん的な意味です)。
閑話休題
市民としてはそれで良いと思いますが、彼ら彼女らの日常は事件の処理な訳で。
それも、少し前まで普通の市民だったわけで。それなりの訓練と勉強をしたとはいえ、スーパーマンでもなんでもなく、生身の人間なわけで……。
まだ意識不明だという今回の被害を受けた巡査の方、ご無事を祈ってやみません。

雨の日の余計なトラブルを防ぐ5000円

雨の日に鉄道など利用するとき、周りの人に傘で迷惑をかけないような配慮って、やっぱり必要です。
昨日みたいな豪雨の場合、雨が強くなれば風も吹きます。強風で傘が壊れて道端に捨てたら、その傘が風であおられて、交通事故や誰かを怪我させてしまうかもしれない。
また、長傘の場合、雨が止んでからの階段やエスカレーターでの持ち方によっては迷惑とかもあります。というか、長傘って階段で落としそうになりませんか?
自分の場合、試行錯誤の末…

  1. 風に強い折りたたみ傘
  2. 吸水カバー

…のコンボで対策ができました。
この効果は3つ。
傘を風で壊さない、傘で周りを濡らさない、傘を無くさない。二石三鳥!


どうやら、風に強い折りたたみ傘って、設計思想が2つあるみたいで。一つは風に耐える傘で強い風でもそう折れない。もう一つは、敢えて風で折れるのも織り込み済みの傘。ただし骨がバッキリ破損したりせず、強風で骨が畳まれ風を受け流す設計。
耐風タイプを使っていた頃もありましたが、ある時、東京のビル風に負けてバッキリ破損。以来、受け流しタイプを使っています。なかなかいい感じに長く使えています。折りたたみ傘は弱いってイメージがありますが、探せば耐風タイプもあるんですね。4000円しないくらいものです。


で、折りたたみ傘をしまう時、ビショビショのままだと足元や周りがえらい目に。そこで便利なのが1000円くらいで売っている吸水機能付きの折りたたみ傘袋。これに入れて(心配ならビニール袋にも入れて……実のところそんなに水漏れしない)カバンにしまえば、傘を持ってないのと同じこと。


さらに、自前の傘袋を使うようにしたら、
コンビニなどでの店頭の傘立てに放置して盗まれる心配もなくなりました。すぐに傘袋へしまえばいいわけですから。

最近では(使ったことがないからクオリティは分かりませんが)100円ショップでも吸水傘袋を見かけることがありますね。お試しには良いかも? ただ、ファスナーや生地の作りが甘いかもしれません。

濡れた傘袋は帰宅したらファブリーズして干して、傘も広げて乾かす…と。

こういうことで周りを心配しなくていいって、楽なんですよねえ。
変なトラブルを避けるってことで、結局のところ、自衛策なんですよね。

相談しましょう、そうしましょう

タイトルは『はないちもんめ』って子供遊びから。まあ、現実はすぐに「きーまった! 花ちゃんが欲しい! 桃ちゃんが欲しい! じゃんけんぽん!」とはゆかないけれどね。
日本では、家族に困った人がいるという時に、他の人に相談することを、恥と思う人が多い気がして。特に男性。性差別の意図は全くないけれど、経験的に。
プライバシーを守ることを徹底してくれる公的機関やカウンセリング、電話相談もそれなりにあるのだが。
溜め込んでしまって、殺人事件なんてことになるよりは、相談する『いっときの恥』の方がはるかにマシ。そしてもちろん、そういった家族問題の相談は恥ずかしいことでもなんでもない。人が生きるんだから、何かしら問題が起きて当たり前。じつは恥とか思っているのは当人だけだった、ということが多そうに思う。
子どもが小さい時からの教育の段階で、相談することは恥ずかしくないって教えさとすことが、特に男の子には大事かもしれない。未来の事件を減らすために。

働くと引きこもりは紙一重

標題が自分の正直な感覚だ。
よく、就活は縁、っていう。
縁のあって採用された会社(など)で働き始めた場所が、自分が会社に合わせるのがそんなに苦痛ではない場所だった。そうならばやがて慣れて、日々出社できるようになる。
でも、そんな幸運に恵まれた人ばかりではない。
たどり着いた場所が針のむしろで仕事をするどころじゃなかった、なんてことは、
なにか間違えば誰にだって起こり得る。
そして、そんな場所ばかりに出会ってしまい、就職をやがて諦めてしまったら。
引きこもりになっても無理はない。
自分もかつて、前の職場をある事情から退職となった後、半年、実家へ引きこもりに。まあ、家事はそれなりにしてはいたけど、毎日が苦しかった。
転機になったのは、吹奏楽自由演奏会。縁あって参加して、すっごく楽しくて、こういう場所にちゃんと出るためには自分にはお金とか物とかのリソースがないことを理解して、それがハローワークへ行くきっかけになった。
で、たまたまハローワークでマッチングさせてくださった新しい場所が、それなりに居心地の良い部署だったので、なんとかどうにか今日に至るまで続けてこられている。
もし、このご縁がなかったら、自分だって引きこもりを続けていたかもしれない。
社会って、誰にとっても何かしらは難しい場所だと思う。そりゃそうだ! バラしてしまえはいろんな考えを持つ人間の集合体。それを、無理やりにルールや空気感でくくり、あるいは分けて、みんなが都合の良いように組み立てたものだもの。どこかしらいびつで、何かしら自分に合わない。それだから自分が合わせる面は多々ある。そこにある程度は鈍感でないと、生きていけない。敏感な人は、社会に出られなくなってしまって、ある種の劣等感を抱えてしまう。
それでいいの?
それぞれの問題を解決できれば、そういう人だったからこそ、できることがあったかもしれない。
例えば、引きこもっている間にオンラインゲームをやり込んでいた人なら、その経験を今度はゲームを企画する側に活かせるのかもしれない。もちろん、その人次第な話ではあるし、そう甘いことじゃないとは思うんだけど、方向性としては、まったく無いとは思えない。
引きこもっていた間に社会との付き合い方が分からなくなったなら、もちろん、その辺りのリハビリも必要ではある。自分にも前述の就活でこれが必要だったのだけど、ハローワークで実質的に社会へのリハビリになる形になった支援を受けさせてもらえたので、何とかなった。具体的に言うと、隔週でハローワークの担当者さんに面談してもらうこと、それ自体が、社会に再び出る準備になったのだ。あと、就活での面接の練習とか、自己分析とか無理のない目標の持ち方とかは本当に参考になったし。
そうしたことは、親御さん一人で到底できることではないし。
引きこもりのご家庭の方には、何かしらの機関に相談をする勇気を持ってほしいと思う。
ともかくも。今の時代、どこのご家庭でも何かのきっかけで引きこもりになることは起こりうるので、そこを非難するようなことはやめてほしいなと思う。いわゆる他人を巻き込むなら一人で死ね論に、そうした空気を感じて、ひたすら怖い。
同じようなことで、他人に迷惑をかけるな、というのは、一見マナーが良いことでいて、下手したら問題を抱え込んでより悪い結果になってしまう。子供が電車で泣いたからって迷惑がる人がいる。人によっては舌打ちすらする。馬鹿野郎。自分だってかつては子供で、その時の周りの大人に『迷惑をかけて』大きくなったのに、それを忘れて何様のつもりだ。大小便ひとつ、最初から自分で始末できたわけではあるまいに! それに、そういう人が多かったら、赤ちゃんを抱えたご家庭の方が、ますます公共交通機関を利用した外出ができにくくなるじゃないか。赤ちゃんは未来人だ。こころない舌打ちひとつで、誰かの人生を変えちまう可能性を考えられない人はやっぱり馬鹿野郎だ。
脱線したが、なんというかな、かけて良い迷惑ってある。うまく言えないけれども。そういうのとか、相談とかは、人として当たり前で、恥ずかしいことじゃ無いんだよなぁ。
自分はパソコンなどの相談をされるのが仕事だから、余計にそう思うのかもしれないが。
あの2つの大きな事件と似たような問題を抱えられた方に、どうか何かの幸あれと願いたい。願うことしかできないけれど…。

子どものいない人の考える子どもとの向き合い方

子育てをしている知人と接することが時々ある。が、自分は子持ちでもなんでもないため、時々難しさを感じる。
自分だってかつては乳幼児だったわけで、同じ人間なんだし、勝手に難しいと思い込んでいるだけかもしれない…が。返す返すも、子育てをしている友人達のタフなことよ。
ところで、子どもをほめるべきか論がツイッターで話題になっていた。
https://togetter.com/li/1359286
たしかに、ほめるということは、ある価値観において評価すること。まかり間違えば、自意識の過大につながる。前提となる価値観が間違っていることすらあるだろう。であれば、ほめるというより、事実を承認する方が子どものためというこの論旨は理解できる。
例えば、知人の子どもさんが魚の絵を描いて見せてくれたとする。
それは、ほめるほめないの前に、自分を見てほしい、ということなのだと考えられそうだ。であれば『上手に描けたね』というよりは『お魚さんだね』という方がよい、と。
滅多に会わない人にもお魚だって分かってもらえたということだけでも、まずはうれしいわけで。それが会話の糸口になることもある。どこにいたお魚さんなのか、お魚が好きなのか、ちょっときっかけを与えれば、色々と話してくれるだろう。これなら口下手な自分にもできそうだ。
それにしても、この炎天下が日常となる令和時代を生きて行かねばならない子どもたちの健康を祈ってやまない。もう少し、お手柔らかにしてくれぬかね。まだ5月というに…。

『デジタル・タトゥー』を観ている

ドラマ『デジタル・タトゥー』をこのところ観ている。
https://www.nhk.or.jp/drama/dodra/tatoo/
インターネット上にいろんなことを自由に書ける昨今、中には、顔が見えないゆえに言葉が過激になったりして、事実無根の書き込みがなされ、批判された当人の社会生活に支障が出てしまうこともあるという。
SNS上の元書き込みが削除されても、コピーがあることも。
過激な書き込みをしてしまった当人が反省して元記事を削除しても、そうしたコピー(まとめサイトはコピペが多いが、web魚拓やweb archiveなどは元サイトの体裁そのままに残される)は残ってしまう。そちらの削除申請もしなくてはならない。
それに、SNSをしていないから自分には関係がない、というのもこの時代、誤りだろう。本人があずかり知らぬところで勝手な噂をされることは、充分に考えられる。
何年も前のことでも、今では検索すれば昨日あった出来事のように記事を読むことができてしまう。便利な反面、怖いことでもある。一昔前なら時間が風化させてくれたようなことも容赦がない。
人間、そこまで毎日、正しく生きていけるものだろうか? ちょっとした失言を見つけては正義を気取ってたたき伏せる輩には、正直、閉口する。
ところで、ネット上でものを書くときの経験則だが、『〜するべき』という言葉にはとくに注意を払うと良いと思う。その言葉を使ってはいけない、ということではないが、自分のポジションを明らかにするだけではなく、その反対の立場を無闇に批判するニュアンスもあると思う。時と場合によるけれど。結構『べき』論、ネットで見かける。根拠が薄い、あるいは、ないこともあるのに。
ドラマの昨日の回では、裁判で明らかにされたとされる『真実』が、実はえん罪だったという司法上の問題点も巻き込んでいて、示唆に富んでいたと思う。裁判が必ずしも真実をつまびらかにしてくれるとは限らないというのは、過去のさまざまなえん罪事件や『それでもボクはやってない』という痴漢冤罪の映画でも社会に問われたことだ。
日本の刑事裁判は99パーセントが有罪になる*1という。しかし、普通に市民生活感覚で考えて、例えば何かの証言をするとき、警察や検察に客観的に正しく伝えられるだろうか? 事件の証言という非日常感や警察に促されたりして多少、盛ったり、「この人こそ犯人です!」と言い切ってしまったり、そういうことはまったくないのだろうか?
そんなこともあるので、悪いのはこの人に決まっている、と、ある人を批判するのは、よほどの根拠がなくては出来ない。もし間違っていたらその矛先をどう収めるのか、そこまで考えて行動しないと、相手も自分も傷つけることになる。
この意味では日本のマスコミはかつて、手痛い失敗をしている。松本サリン事件の時、たまたま現場のご近所にお住まいで、少々化学薬品を所持していただけの一般人の方をマスコミはこぞって犯人として糾弾した。
やがて東京の事件などもあって捜査が進み、真実が明らかにされたとき。真犯人は恐ろしいカルト組織であり、彼と彼のご家族は本当に普通の人。むしろあの毒ガスの被害者であったとわかった。
あの時代にインターネットがあったら、彼を擁護するより批判する声が多かったのではないかと思う。何しろあのとき、世論がハッキリした犯人を求めていた。犯人を血祭りに上げろと言わんばかりに。
今の時代、その松本サリン事件のような誤解が、ネット上という場所で日常的に起きているともいえる。想像するだに恐ろしい。
何かをネット上で断定して書くときは、よほどの根拠を持って示さねば、怖いのではないか? そして、客観的に分かりやすく誤解がないように書かなくてはならないのではないか? そんなことを思いつつ、このドラマを見ている。
そういえば「ウソをウソだと見抜けないとインターネットを使うのは難しい」という言説もある。言葉はキツいが、こんな言葉が出てくるくらいインターネットは難しいということだ。
そうは言っても、ウソを見抜くのは誰でも難しい。そんなことを言っていたらいつまでたってもネットを使えないことになる。
肝心なのは、自分が信じた情報が虚偽だったときにどう対処するか常に考えることや、極端な情報を過信しないことではないだろうか。
『ソースを示せ』*2、『半年ROMれ*3とは昔の掲示板でよく言われたが、最近聞かれなくなった。だが、この言葉は、今の時代でも示唆に富んでいるだろう。ネットを使う人はやっぱりこの2点は理解しておくと良いのではないかと思う。

*1:年間の刑事裁判の統計から、判決が有罪、無罪の件数を合計し、無罪だった割合を算出するとこれくらいになっているという話。『それでもボクはやってない』で触れられていた。実際『刑事通常第一審事件の終局区分別人員(実人員)【地方裁判所】 』(http://www.courts.go.jp/app/files/toukei/160/010160.pdf)を見ても、平成29年度で有罪49335件、無罪111件。有罪率は49335÷(49335+111)≒0.997…つまり約99.7パーセントだった。

*2:私見による解説1:何かについて論じるときは、その根拠になった情報源をきちんと示すべきである、ということ。

*3:私見による解説2:ネット掲示板に書き込む前には、半年くらいは様子を見て、その掲示板の空気感や信憑性を吟味し、もしもそれでも書き込むならふさわしい態度で望むと良い、ということ。ある意味では同調性を肯定するような言説とも思うが、より慎重になるなら考えておいた方が良い態度

とんでもない埼玉!

一度は見ておかねばならない謎の使命感のもと、『翔んで埼玉』の映画版を見てきました。ようやく。他のお客さんのリアクションも面白かった。
元はといえば、『パタリロ!』で有名な魔夜峰央先生が若かりし頃に書かれた3回分の短編連載。
新潟から所沢へ引っ越して漫画を描き続けていた頃の鬱屈とした想いがきっかけだったとか。ただ、3回分のあとで作者様が埼玉県外(ちなみに横浜!)にお引越しされたために、続きを描けなくなってしまったという…なんともこれ自体が冗談のような背景を持つ怪作であります(参考文献は『翔んで埼玉』収録の『やおい君の日常的でない生活』コミックス後書き)。
連載は前述の作者事情により中途半端なところで終わって。いまの時代になってこの漫画が面白い、と、発掘され、映画にもなったという。
あの面白いのに中途半端な作品からよくぞここまで仕上げたなぁと。逆に最後のオチまで描いていなかったから、映画でしっかりとしたシメをつけられたのかもしれませんが。
さて、映画版は流石にあの世界をリアルとして描くのには無理があると判断されたのか、あくまでも「こんな都市伝説が埼玉にはある」というラジオ放送の体で進みます。しかし…最後の最後に、この物語の核心設定である「あくまでもラジオ」の前提がひっくり返されたりもして、どこまでがリアルなのかよく分からなくなってしまってそれもまた面白かった。
都庁が出てくるあたりから結構リアルっぽさが強まってきて、ほんとどこまでが映画なのかと思いましたよ。新宿都庁付近なんて知ってるところばかりでしたし。
昔から、地域性でディスりあうっていうのは何かしらあるものです。それを魔夜峰央フォーマットの大げさな世界観に組み込みつつリアルの事情と絡めるとあんなトンデモになる。千葉との決戦のシーンは本当に圧巻。『パタリロ!』といい、魔夜峰央作品は大げさで舞台っぽい分、かえって2.5次元に実は向いているのかなぁ。
ところで個人的な埼玉県の印象はものすごく突出した何かはたしかになさそうではありますが、それなりに安定安心の県ってイメージが。だいたい、西武線自体がそんな感じで。西武が中心になって駅前開発をすると、良くも悪くもどの駅も同じようなクオリティになる気がします。それなりの施設はちゃんと揃っていてそれなりに便利なんですが、地域性のところに微妙な疑問符が付いちゃう。可もなく不可もないのであまり批判しにくいのですが……。しかしその安定性を完成させるすごさが埼玉県にはありますね。
ニッチな映画なのに結構長くやってると思います。映画館によってはそろそろ公開終了かも。埼玉、千葉、茨城、東京に長く住んでいる人に特におすすめ。テレ玉とかNACK5などリアルに埼玉な描写も濃く、背景を見ているだけでも楽しめました。
……ちなみに、私は埼玉には住んでいませんが、西武線には馴染みがありすぎるので!
あとあの埋蔵金ネタと赤城山って、どう見ても糸井重里さんが昔やっていたあれに掛けてますね。そういうところも面白かったですね。