東京国立近代美術館フィルムセンター見学

ぐるっとパスがあると、いろいろな美術館や博物館に行く気になります。今日はできれば、ここの近くにある相田みつを美術館もみておきたかったのですが、時間が無くなってしまって断念しました。まあ、また今度ということで。
映像制作に興味がある人は、日本の映像制作の原初がわかるここの常設展はみておくといいと思います。昔使っていたという撮影機材って、なんかレトロな風格がありますよ。


日本のドキュメンタリー映画の先駆けとも言える作品が、白瀬矗率いる第二次南極探検隊を撮影した「日本南極探検」(1912年)という作品です。展示では3分くらい見られますが、この作品が撮られるまでのいきさつはかなり興味深い物でした。展示のキャプションの情報を元に記します。
当時、それほど多くはなかった日本の映像制作業者の一つ、「Mパテー商会」という会社がありまして。起業した梅屋庄吉は長崎の人。10代から海外経験を持っていたそうです。この時代ですからねえ。まだまだ、海外渡航は一般的な事ではなかったはず。*1
さて、その彼の会社へ、あの大隈重信から依頼が舞い込みました。突然の事ではありました。しかも依頼内容は、国の威信を掛けた大事業である南極探検隊の映像記録を撮影しに、すぐに人をシドニーまで送って欲しい、という緊急かつ大掛かりな物です。実は天候の問題があり、南極探検隊はシドニーに停泊して一冬を越す事に。そんな折り、せっかく行くのだから記録映像を作っておくべきだ、という意見が出たらしいんですね。
そして、いきなりな話でしたが、その依頼をMパテー商会は受諾。しかも、その日に会社に居なかった社員、田泉保直を送る事に勝手に決めてしまいました。彼はびっくりしたでしょうね。出社してみたら社長に呼ばれて、「ちょっと南極まで出張してくれ」って言われたら、みなさんどうしますか?*2
ともあれ、大変な撮影になりました。当時の南極観測がいかに大変だったかは、それこそ船の科学館の展示からも察する事ができると思います。
さてその田泉さん、いよいよ南極に着いて撮影……と思ったら、あたりは真っ白! なにを撮っていいんだ〜ということで悩んだらしいです。それでもまあ、大和雪原と名付けた地に到着した記念映像、この冒険の船である開南丸、また、南極にいた生物「ペンギン鳥」(ようするにペンギン)や「アザラシ」など、非常に貴重な映像を撮影しました。ペンギンを追いかけ回している隊員さんたちの様子なども撮影されていて、ユーモアが感じられました。
一面の白い物の中で何とか動く物を撮ってこられた。そして、撮影機材もどうにかあの極寒を耐え抜いた。素晴らしい仕事ぶりでしたね。今見ていても、この奇妙な生物や真っ白で寒そうな地の映像を初めて見た当時の人々の驚きぶりが分かる気がしました。


記録をするということ。動く物を動くままに記録すること。その面白さと意義は、今も昔も変わらないのだと思います。
もしも今、DVカメラ、Macintosh、FinalCut Proを田泉さんみたいな人が使えたら、どんな映像を創ってくれるでしょうか?

*1:きっと、好奇心旺盛で新しい物が大好きなエネルギッシュな人物だったのではないか、と想像しています。

*2:そういう言葉を遣ったかは知りませんが。