70年代後半生まれはハイブリッドタイプ?

を読んで……。思い当たるフシが多々ありました。
わたしたちの世代は、小学校時代にファミコンマイコンFM-TownsMSXなど)を経験したり、中高生くらいにワープロをやったり、大学の時がインターネットの一般化(1990年代後半)とちょうど時期が被るのです。
つまり、コンピューティングがどんどん面白くなっていく過程を生活や流行の中で見てきていて、かつ、ある程度アナログチックなことも体験してきています。端的に言えば、「写ルンです」もデジタルカメラも、両方普通のアイテムとして使ったことがあるとか。子どもの頃にFAXが普及し始め留守番電話が一般化していったり。高校くらいの頃にポケットベルPHSと携帯電話の3点を知っていたり。
ファジーコンピュータとか複雑系の流行も私たちの中高生時代に相当します。物事は単純ではないが電子化することもできるという皮膚感覚が、この世代にはあるような気がするのですよ。個人的な感覚かもしれませんけれど……。


ともかく、私たちの年代は、アナログな物がデジタルに切り替わっていく流れを、教科書からの知識ではなく体験として知っている。私たちよりも5年以上あとになると、家電品のデジタル化がかなり進んだ後になってしまうので、またその辺への感覚が違うのです。5以上前だと、アナログな状態がまだまだ基本であるうちに社会人になってしまっていますし。
たしかソースは『ウェブ進化論』だったかと思うのですが、70年代後半世代はインターネットを大学という年齢で初めて経験した世代だとか。自分で行動できて時間もたっぷりあるのが大学生。そのころにネットの水を被りまくった。わたし自身、大学時代に、小学校からの旧友が海外留学して、はじめのうちはミニレター(郵便書簡)で手紙を書いていましたが、数年で英文での電子メール*1に切り替えた経験があります。即日から数日で返事が来て、しかも表現が面白かったあの体験は、わたしにインターネットと言う世界の国境の無さと情報の早さを端的に教えてくれたと思います。


さて、わたしが個人的に危惧しているのは、ここ数年位に大学生になるくらいの世代……90年代生まれの学生たちのメディア経験です。
アナログで出来ることを知ってからデジタルで仕事する=クオリティが高くなる、という流れを私たちは経験上知っているわけですが、彼等は手紙よりもケータイメール、ケータイWebが最初から標準のような状態で高校生時代を送ってきているはずです。カメラ付きケータイで当たり前で、画質に対する注意を払うクセを付ける機会が最初からなかったり。
テンプレートに書き込んで書類を作れる、一種のお仕着せ的アプリケーションが当たり前だったり。
最近、色々な書類作成ソフト、Web作成システムなどが、テンプレートに書き込むだけでソレなりのクオリティで出来ることをうたっていますが、わたしは自分でデザインを考える機会を奪っているように思えて仕方がありません。
WikipediaGoogleである程度の答えを得てレポートを作成できてしまったり。中には丸写しで単位をゲットすることすら出来ますし。
これからまた学生さん達のITに関わる仕事になるので、自分自身のスキルアップも大事ですが、学生さん達のメディア経験の実情やレポート作成能力なども気になって仕方がありません。


骨子やバランスなどは自分で考えて、見栄えや文字が下手だったり、効率化のためにデジタルを使う、という流れって、やっぱり何だかんだ言っても基本だと思うのですが……。
自作のパンフレットに掲載する写真一つとっても、本当はある程度アタリ(ラフ)を描き起こしておいて、それに近い構図で撮影してくるくらいでいた方が意図通りのショットが収められると思うのですが、今は手軽に写真が撮れすぎるので、いきなり現地に行って撮影して、そこから選ぶのが当たり前になってしまっています。現像に手間がかかることもあって、先読みで写真の構図を決めていった頃の方が、たぶん、何度も考える工程を通るから仕事の質としては上回るはずで。


それから、最近2、3の吹奏楽演奏会を聴きにいって気になったのですが、写真の画質があきらかに悪いモノが目についたのです。一応はプロのはずの演奏会でも、演奏者の写真がデジカメ撮影、あるいはWebサイトから取ってきたのかもと分かるような画質の物を平気で使っていて。演奏者の写真だけではなく、広告などもWebの流用だとすぐに分かったようなジャギーの入り方をしている物があったりして、大変驚きました。
一般的にクオリティに対する注意力がどんどん下がってきているのは危惧するべきだと考えます。質の高い仕事を納期までになんとかするのは、大変に精神的なエネルギーも、肉体的な物も使いますけれども、便利な時代だからこそ手を抜くべきじゃないところはきちんとやるように心がけないと、ちゃんとしたものは作れない気がして……。


いろいろざっと指摘しましたけれど、まあ、つまり。
あくまでMacやPCは、手描きでは出来ないような効率性や美しさをフォローする道具であって、基本のものは手描きの世界にあるし。それから、色々な物が簡単にカタチになる分、質の悪いモノも簡単に出来てしまうので、きれいな物をちゃんと作るように心がけたい物だ、ということです。
こういう話が通じる世代、皮膚感覚で分かっている世代に生まれて良かったなあと本当に思います。
アナログでしか出せない色や音がある一方で、デジタルの生産性が現代文明で必須であるということも分かっているので……。アナログしか出来ないと生き残れないし、デジタルしか知らなければ作品の骨子がぐらついても仕方が無いはずです。
これからの人たちが、自分の表現メディアとして、幼少時代にクレヨンより先にデジカメを知っている可能性もあります。*2
この体験差、手の可能性を知らずすっ飛ばしていきなりコンピューターになっていったとしたら、これから先どうなってしまうのかが心配でなりません。
アナログの曖昧さをしらず、全てがデジタルの量子化世界にあるという感触で生きていくのだとしたら。
なんだろう。見えている世界が既に違ってしまうだろうし。ここにまたデジタルデバイドがあり得る気がします……。


近々、テレビですらデジタルになりますし……。そういえば、これから生まれてくる世代は、ビデオテープやカセットテープといったアナログレコーディングメディアも知らないのかもしれない……。


物作りや原稿執筆に悩んだら、鉛筆の世界に帰ると良い物が出て来る。
これって、表現する人間に取ってスゴく大切なことのように思うのです。
でも、これからの世代の人たちは、その良さを知る前にデジタルの波を被らされてしまう危険性がある。
デジタルアートの面白さは自分なりに知ってはいますが、それとはまた別の問題で。
機械がなければ表現できない人間が生まれてしまうのだとすれば、それは恐ろしいことに思えてなりません。

*1:さすがに日本語環境が現地には無かったため。

*2:身内の話で恐縮ですが、甥っ子……現在2歳……は、クレヨンのお絵描きも好きですが、すでにデジカメの使い方も知っているのですよ。考えてみたら結構怖いことではあります。フィルムカメラを知らないって言うのが何となく怖い。