水道とインターネット

語弊があるかもしれませんけど。
生きるために川から水を汲むのが当たり前だった時代と、水道の蛇口をひねれば水が出て来る時代とでは、生命維持に対するコストのかけ方が大きく異なります。つまり、生命体として生き残ることがかなり楽になった反面、他のことで生き残って行かなくては行けなくなる。
最近、「水道を使いこなせる」人たちが自殺していることが多い……いろいろな動機で……そういう日本で生きていると、日本にあるのは例えばの話、水を汲む労力を他のことに向けられるような豊かさのはずなのに、なぜ豊かに生きていないのか、と、思えてきます。
今は、ある時代に水道ができたのとは異質な意味で、インターネットによって生きる糧を得るルールが大きく変わろうとしている、ということなのかなあと。社会的な情報は新聞を買ってきて、ニュースをみて得ていたころ(=水を汲む)と、インターネットで検索して、市民レベルの発信者から情報を得る(=水道)と……その辺りのルールの違いについて、今の大人はもっと子ども達に語るべきではないでしょうか。昔は良かったと言うノスタルジーではなく、今はイケてるという流行論でもなく、現実を生きるためのルールの話として。自分から動いて人探しが出来る時代なんだということ、勝負するフィールドが広がって行っているということを含めて。
水道のような物が出来たりした頃に、その辺りの対話を今の大人がもっと大人の人たちから受けられなかったこと、または自分なりにもっと考えていなかったことなどが、日本の豊かなはずなのに豊かじゃない社会の原因になっている気がしてならないのです。今の社会を作った世代の人たちは、働くのでいっぱいで世代や性別を超えた対話が足りなかったように思えます。
ネットの上「だけ」で読んでいる場合じゃないな……と、本当に思います。ただの「検索窓」としてしかネットを使っていない、でも人間としては心から尊敬している、もっと大人の友人達に、あるいはもっと若手の人たちに、こういうことをどういう風に「実感を伴って」お伝えすればいいか、と。
そういえば、先日、70代のあるおばさまにインターネットの使い方をお教えしたとき、「時代から取り残される気がして怖いわ」とおっしゃっていました。ある意味での「水道の蛇口」で苦労なさった世代の方のことですので、非常に重みのあるひと言でした。多分、今まで自分が経験したのとはまったく異質な労力を感じたんだと思うんですよね。
ある言語、ある世代に固まっていると、分からない事が沢山あるでしょう。眼を開いて行かなければ。


って……以下のエントリを読んで思いました。まだまだ考え中。

広い世界からみている視点を持ちながら、狭いシゴトをするのと、
狭い世界しかしらないで、狭いシゴトをするのとでは、
何かが違うはず……です。どんな小さなシゴトでもね。


ちなみに、最近の日本の自殺の状況については、以下のダイアリーが詳しいです。

合掌せずにはいられないログの数々……。
自分だって、状況が状況になったら、こういう道を選ぶ可能性だってある、そういうことも頭の片隅に入れつつ。
たいがいの自殺は間接的な殺人なので、殺害されないようにするにはどうすればいいか、もっと考えるべきだと思っています。そして対話から逃げている場合じゃないです。