やっぱり嘘はいけないものだが

あのニセモノ作曲者さん事件。いくつかの資料(雑誌3誌と取材書籍1冊)が入手できた。
最初のボタンの掛け違いが、次第に恐ろしいことになっていったとの思いを強くする。
N氏の繊細かつ緻密な作曲能力(何しろご専門は無調の現代音楽という……感性も理論も両方ないと作れない系)に、S氏の強烈なプロデュース能力。
最初から、ユニットであると公式に立場を明確にしていれば、ここまで傷の大きなことにはならなかったのではないかと思う。ふたりでひとつの取り組みをする例は、現代では芸術にも大衆芸能にも、珍しくないことであるし。本業を持ちながらも、副業としてユニット活動をすることも考えられたのでは、と、端からは思ってしまう。
ただ、現代音楽のアカデミックなお立場では、そういったことは難しかったのかもしれない。
1人で作るのが当たり前だろう、と、されている世界だ。ポップスのように、作曲者が鼻歌などで音の基本形を作り、アレンジャーが全体を完成させるのが当たり前という空気は、少なくともないと思う。実際の現場を知っている訳ではないが。
S氏のしたことは、単なるアドバイスという域を越えているように読めたし、N氏の作曲も、普段の世界では出来ないことをする冒険感のようなものはあったのだろう。たとえ、そこにご自分のお名前はなくとも、演奏機会に恵まれ多くの聴衆を得られる、というのは嬉しいというのはあっただろう。
ただ、N氏が明らかに読み違えたことは、クラシックの世界での新しい売り方を思いつける、S氏の才能だった。自分自身をどう見せるか、クラシックに興味がない日本の大衆をどうやったら強烈に引きつけられるか、そういったプロデュース能力と、恐ろしい程の演技力だった。
まるで戯曲の主役のような芸術家が、クラシックの世界に生まれたのだ。そしてそれは現実だったのだ。それなりにしっかりとした……骨太に思われるような作品を持って。
そういったことがゆえに、軽い息抜き程度で始めたことが、恐ろしい程の反響を生んでしまった。そしてその嵐を止めることは、強烈なショックがないと難しい。その強烈なショックというのは、音楽そのものの内包する矛盾点から次第にバレて行ったこと、世界的な大会での音楽採用、大切な小さな友人への被害だった。


虚偽から生まれた音楽。
しかし、N氏はS氏の作り上げた虚構の中にいるのは、次第に堪え難くなり。
今回の破綻劇となった。
S氏が気取るのが障がい者でなければ。そして、ユニットであれば。
こんな破綻になどならかったのにと思う。


この二人の組み合わせ、何となくどこかの小説で読んだ気がしたと思って必死に記憶をたぐり寄せた。若木未生の青春音楽小説『グラスハート』に出てくる、主人公たちのライバルユニット『オーヴァークローム』にどことなく似ているのだ。破天荒なボーカルに、冷静で緻密なシンセ作曲担当者。シンセの彼はライブでも大量の機械の中に埋もれてしまってあまり姿が見えない。ユニットの人気のゆえんは、その音楽と、ボーカルの尖ったスタイルや言動によるものだった。読んだのが昔のことなので、イメージだけで書いているが。


そう、作曲者が大きくオモテに出なくても良い。謎の作曲者と凄腕のプロデューサーでひと組となっての活動でも、何らかの売り方はあったはずだ。N氏の名前は本業に響かない変名としておいても「二人でひとつのユニットをやっています」ということだけは公表しておく。
これはこれで、謎めいた作曲者さんということもあって、興味を引くことが出来そうな気がする。そういった形は、S氏の功名心にはそぐわなかったのかもしれないが。もう少しだけで良い。S氏が、N氏を、尊重するような気持ちがあれば。
N氏はもともとオモテに出るつもりはなさそうであったようだし。


事情を知るにつれ、本当にもったいないと思えてならない。
なにしろ、現代音楽は儲からない。
大学のとき、作曲の本当に入門のような部分で、現代音楽の基本となる12音技法の基本的な考え方を習ったけれども。調性音楽になじんだ自分には、理屈は分かっても使うのは無理だった。作曲に興味があった自分ですらこれだ。なかなか一般の方が広く興味を持ち、楽しむ、というような……商売になるということには結びつかないジャンルだと思う。
しかし、アカデミックな意味でも、創作的な意味でも、現代音楽というジャンルには意義があるし、作られなければならない訳で。
結果、作曲者や演奏者などが身銭を切ったような形での存続になってしまう。
今回の件のおおもとには、現代音楽が儲からない、ということがどうしてもあるようだ。
現代音楽を書ける程度に、音楽については熟知しているハイレベルな人たちがいて。
しかし彼らは、その専門技能で儲けることが出来ない。
そこでその才能に対して、大衆ウケする音楽に結びつけるプロデュースをする、というのは間違っているとは思わない。S氏の目の付け所のベクトルには間違いはなかったと思う。
ただ、そこに、S氏自身の性格というか、功名心というかが暴走してしまった……。


本件、日本のクラシック音楽のマネジメントが袋小路に来てしまっていることを象徴しているような気がする。虚偽や大げさなエモーショナルを交えなければ、曲が売れないようになってしまったとは思いたくないのだが。
今回の一件を単なるゴシップにしてはならない。根本的には、行き詰まった日本のクラシック音楽界の現状があった訳だから。


で、私としては、吹奏楽というジャンルに、個人的に光を見ていたり、する。
日本の吹奏楽はレベルが高い。そして、オーケストラアレンジものから、ポップス、ジャズ、現代音楽、もちろん吹奏楽オリジナル曲まで、何でもこなせる柔軟性がある。
また、全国的に教育メソッドが行き届いており、コンクールが盛んなおかげで、そこそこの曲ならどこの吹奏楽部でもある程度出来てしまう。演奏が上手いとかハーモニーが出来ているとかは別としても、スーザのマーチの演奏それ自体は、どこの学校の吹奏楽部でもやっている。楽器の出来ない人からすれば、行進曲を演奏できること自体がすごいことなのだが。
そのおかげで、大人になっても楽器を続けている人も多い。吹奏族自由演奏会など、突発的なその日だけの合奏を楽しむイベントもある(私はこれを吹奏楽フラッシュモブだと思っているが)。吹奏楽というジャンルには、クラシックも現代もポップスもやれるのに、市民参加型の大衆性があるのだ。また、昨今の著作権教育や、楽譜作成ソフト、インターネットによる楽譜&音源データ通販のおかげで、楽譜や資料に対するコストも少しずつ下がってきている。YouTubeニコニコ動画などのおかげで、自作品をオンライン発表するという場所も出来てきた。
演奏するという立場から、クラシックを広めるというようなメディアに、吹奏楽はなれないだろうか。地道な種まきの入り口のひとつとして。まずそれができなければ、花を咲かせることは出来ないのだし。


あの高校の吹奏楽部にN氏の作品が献呈されるという出会いも、結局はS氏がいなければなされなかったことなのだ。
この事件、なんとか、プラスに持って行く方法はないのだろうかと、ひとり問答している。